勝敗や記録だけが、スポーツの「見どころ」ではない
テレビなんかで取り上げられるスポーツって、お決まりのパターンのドラマみたいに表現されていることが多いよね。先も読めちゃうし、なんだか綺麗すぎる。
だから、スポーツ自体に関わる人たちはもちろんなんだけど、もし観ている人がそういったわかりやすいストーリーだけにしか関心を抱かなくなってしまったら、たぶんスポーツはつまらなくなると思う。というか飽きると思う。
もっと言うと「人がやらなくてもいい」ってなってしまう。
だってお決まりのパターンだから。
そんなんだったら極論ロボットでもいいってなってしまうと思う。
本来は、それぞれの選手がそれぞれ違った感情や背景を持った人間なはずで、そういった人間のやるスポーツを勝敗や記録だけを競うものにしてしまうと、結局何も伝わらないし、感動も減ってしまう。
だから僕は今もこうやって、魂込めて走り続けてるんだとも思う。
1912年ストックホルムオリンピック男子マラソン代表の金栗四三(かなくりしそう)さん。
この方は僕の故郷・熊本の大先輩。日本人初の五輪選手の一人で、「日本マラソンの父」とも呼ばれた人。金栗さんは晩年も走り続けた。
この方は僕の「マスター」だ。
なぜ走り続けたんだろう?
なぜ走るのだろう?
好きだから?
何のため?
愚問だね。「マスター」は走りたいから走るのさ。
レジェンド・オブ・マスター。
最高。
(本稿は、末續慎吾著『自由。──世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学』の内容を抜粋・編集したものです)