自分の持ち味を活かすということ
弘兼:北方さんは、なぜ最初は純文学を書こうと思ったんですか?
北方:最初に同人誌に書いた小説が、そのまま純文学の雑誌に掲載されて活字になったんです。活字になったからには、やっぱり純文学を書かなきゃいけないと思った。そうしたら、同世代の書き手に中上健次とか宮本輝とか立松和平がいて、中上健次は30歳ぐらいで芥川賞をとってしまうし、宮本輝には『泥の河』という作品があった。
弘兼:みんな、ほとんど同じ年齢ですね。
北方:彼らを見て、「あいつらにあって、俺にないものってあるんだな」と思い知らされました。彼らは最初から書くべきものを持って生まれてきた。例えば、中上健次は文学をやることが純粋な自己表現だったわけです。
一方で、自分の場合は親父が外国航路の船長で比較的裕福だったこともあって、そういう意味では書くべきものがない。それでも「あいつらになくて俺だけにあるものってなんだろう」と思って、それを探し続けていたら、物語に関しては自分のほうが書けるということに気づいた。そこからエンターテイメント書き始めたんです。
弘兼:私も初期の頃、10年ぐらい描いていた『人間交差点』という作品があります。最初の1~2作は自分で全部描いていたんですけど、忙しくなって「もう描けない」と言ったら、原作者を立てるという話になった。
それで、矢島正雄さんという方が書いた原作を読んでみたんですけど、私とは全然発想が違っていて、すごい物語を書いてくるんですよ。私は中流家庭の息子として生まれて、なに不自由なく私立大学まで通わせてもらったんですけど、彼は大学検定試験を経て大学に進学して、銀行員を経て脚本家になった人なんです。私とはまったく別の家庭環境の中で育っているので、私には思いつかないような話を書くんですね。そこで彼と組んで作品を描くことにしました。
いまにして思うと、あれが純文学的な原作であって、私が得意なのはエンターテイメント作品だったのかもしれない。
北方:私は純文学からエンターテイメントに転向したのですが、あるとき立松和平と2人で飲んでたら、彼は栃木弁で「なあ北方」と言って、そのことを認めてくれた。それは嬉しかったですよ。
女性と割り勘することが信じられない
弘兼:それじゃ、北方さんは、下積み時代はお金で苦労されたんですか。
北方:私は肺結核を患ったので、大学を卒業しても就職できなかったんですよ。それで純文学をやってましたけど、なかなか売れない。だから、半月は肉体労働をやって、残りの半月で書くという生活をしていました。ただ、それを苦しいとも、なんとも思わなかったです。
当時は当時で、アルバイトで得た手持ちのお金で女の子をなんとかしようと一生懸命やってました。一緒に飲んでからホテルに行きたくても、カクテルをガバガバ飲まれちゃうと、ポケットの中が足りなくなる。そういうときは、「ちょっと用事思い出した」と言って帰ったりして(笑)。女の子にお金を出してもらうのは嫌だったからね。
弘兼:われわれ世代には、女性にお金払わせるという発想がない。若い人はデートでも結構割り勘しているみたいだけど、信じられないですよね。
北方:本当に信じられない。
弘兼:われわれが学生時代にデートする前は、みんなからお金を借り集めて「行ってくるから」「頑張ってこいよ」って送り出してもらえるって感じだったけど、いまの若い人たちは、女性にお金払わせるのが普通なんでしょうね。
北方:2万円しかないときは2万円でやってたし、もっとあるときはもっとあるなりにやったけど、お金の対する考え方はそんなに変わってないと思いますね。
弘兼:私の場合は、会社に入ってから「漫画家になったら、きっとお金に困るだろう」と思って、もらった給料の中から4年間で100万円貯めたんです。でも、いざフリーになったら、イラストの仕事で会社員時代の給料の3倍ぐらいが入ってきたんですよ。
その後、漫画家になるときにイラストの仕事を減らしたので、多少収入は減りましたけど、お金に困ったことがなかったんです。僕らの先輩世代の漫画家さんには「みかん箱の上にシーツを敷いて、その上でこりこり描いてた」みたいな苦労話がありますけど、僕はそういう経験がなかったんですよね。
北方:振り返ると、一番焦ったのは26歳で結婚したときです。女房が教師で月給をもらっていたから「これでいけるな」と思ったのですが、結婚した直後に退職した。その頃は、月に食えるだけの金は渡していなかったけど、文句を言われたことがない。
いまは、私は全収入を妻に渡しているんです。そこからお小遣いもらうんですよ。
弘兼:それはすばらしい。
北方:とにかくこの齢で金に困らないというのも大事なことかもしれません。感性がさもしくならないためにも。
弘兼:そういうことですよね。芸術って、貧困にあえいでいるところからは、なかなか出てこないんです。