──たしかに自分の「興味のタネ」が何なのか、わかっていない人はたくさんいますよね。だからこそ、アーティストの思考過程をたどるようなエクサイズをやることで、「タネ」や「根」が見つかりやすくなるのかもしれませんね。

遠山 いま末永さんがおっしゃったように、肝心なのは「好奇心」なんです。好奇心があれば、どうでもいい仕事なんてありません。「自分だったら、与えられた仕事の価値をどうやって高めるか?」そういうことに好奇心を持てるかどうかなんです。

「社員旅行の幹事なんて、つまらない仕事を任されちゃった……最悪だ」と思うのか、それとも「一生忘れられない社員旅行にしちゃうもんね」というとらえ方ができるか、そこで大きく違ってきます。

私は「1人ひとりの時代」という言い方をしましたが、仕事でも個人レベルの規模のことをどんどんぶち込んでいけばいいのだと思っています。大きな会社にいると、どうしても100億・1000億というような大きな規模の話をしないといけないと思いがちですが、むしろ、会社を利用して「自分なりのプロジェクト」を仕掛けていくという発想でいい。

末永 いま遠山さんがおっしゃった「小さな個人のことからはじめる」というのは、すごく素敵だなと思います。アーティストも、最初から具体的な構想があるわけではなく、動きながら、つくりながら考えますし。

遠山 最初は小さなビジネスにしかならないかもしれませんが、ある段階で「これをアジア全体に広げたらどうなるだろう?」「地球全体だとしたら?」というふうに目線を上げてみる。そうすると、「むしろこれ、うちの会社がやらなくて誰がやるの?」という具合に、個人の欲求がいきなり社会性を帯びてくるようになる。だからこそ、まず大事なのは、個人の好奇心からスタートし、小さな自信を積み上げながら仕事をしていくことなんだと思いますね。

デジタルは「アート思考」の敵ではない。
むしろ「追い風」になると考えるべき

──「自分の関心を起点に小さくはじめること」の大切さに関係して注目したいのが、デジタル化の波です。たとえば、いまは何かモノづくりをしようというときにも、デジタルで小さなトライアルができるようになりましたよね。末永さんはこうしたデジタル化が、アート思考的な教育にどんなインパクトをもたらすとお考えですか?

末永 自分の「興味のタネ」を掘り下げるときには、ただ自分の内側だけを見つめても、なかなかうまくいきません。むしろ、まず「新しい視点」に出会うところから始めてみるのが効果的で、アート作品などを鑑賞することには意味があると思います。

デジタル化の時代になったことで、ある意味では強制的に新しい視点・新しい作品に出会う場面はつくりやすくなりましたよね。わざわざ美術館の現場まで行かなくても、アート作品に出会えるようになったことの意義はすごく大きいと思います。

それに、Zoomなどを使えば、生徒と教師が同じ空間にいる必要すらありません。作品の見た目だけではなく、作品が生まれたコンテクストなどについても、簡単にコミュニケーションできるようになったのは、デジタルの恩恵ですよね。

とはいえ、そこには限界があることもたしかです。たとえば絵画は、実際には2次元の平面的な作品ではなく、キャンバスに絵の具を付着させた3次元の物体です。もともとデジタルに鑑賞されることを想定してつくられた作品ならともかく、そうではない絵画をデジタルで観たときにどうなるのか……。視覚でとらえられる要素は、絵画作品のほんの一部でしかありませんから、デジタルで鑑賞するときにはまた新たな工夫が必要になるように思います。

遠山 私もデジタル化の波は、アート的なものにとっては大きなチャンスだと感じます。アーティストにとっては、デジタル自体が油絵の具に変わる新しいメディウム(媒体)ですし、それに伴って流通と製作、鑑賞体験なども変化していくでしょう。

たとえば、かつては弦楽四重奏はサロンで生で聴くのが“本物”であり、レコードで聴く弦楽四重奏は“偽物”だなんていう時代もあったそうです。でもそれはやがてレコードに置き換わり、いまではストリーム配信へと変化してきました。

美術の世界も同じです。絵画というと、多くの人は1メートル四方くらいのキャンバスに描かれた油絵を思い浮かべると思いますが、あのような形のアート作品がメインになったのは17世紀くらいからです。その前は、壁画や天井画が主流でしたから。

しかしある頃から、絵画というものが「モバイル化」し、額縁なるものに入れて持ち運ばれるようになった。そして、画商なる仕事が生まれて、絵が流通しはじめ、アートの職業化・ビジネス化が進んだ。つまり、ある種の変革が起きたわけです。それからさらに300年くらい経って、必ずしもキャンバスに置かれた油絵の具じゃなくてもいい、という状況が生まれてきているのだと思います。