就職も事業も失敗……背水の覚悟で「中国エステ」を開業
もちろん、ある側面で切り取ると牧歌的にも描かれる「都合のいい記憶」ばかりが、その実態のすべてを表しているわけではない。当時の「中国エステ」では、睡眠薬入りのビールを飲ませて意識を失わせ、客の財布から金を抜き取ったり、サービス中に経営者と共謀した強盗が店を襲い、客をナイフ等で脅して金を強奪したり、客をヒモで縛ってキャッシュカードの暗証番号を聞き出して金を引き出したり……といった事件がしばしば起こっていたとも言われる。ただし、それは「中国エステ」に限った話ではなく、日本人が経営する飲食店も同様であり、「ボッタクリバー」などが社会問題化した繁華街全体の風紀として存在していた。
こういった状況のなか、2000年代初頭より、警察・入管が中心となって「歌舞伎町浄化作戦」が始まり、違法営業する店舗・業態を摘発するキャンペーンを大々的に繰り広げていった。その結果、2000年代半ばには、「中国エステ」に限ってみても、「風俗マッサージ」を喧伝する店舗は激減した。
ところが、摘発が厳格化する一方では、「中国エステ」が自発的に浄化を進める動きもあったという。店舗の「オシャレ化」がなされ、ホームページによる詳細なシステム紹介も始まり、「脱・繁華街(郊外化)」が進み、女のコの言葉遣いも丁寧になり、オイルにまみれた客の体をシャワーで流してあげ、サービスの前後にはハーブティーを提供し、ポイントカードを発行してリピーターを増やし……と、「中国エステ」もまた、日本に存在する他の問題と同様に漂白されていった。
少し長くなってしまったが、ここでふたたびチェ・ホアの話に戻ろう。
彼女は、2000年代初頭に急激な変化を迎えた「中国エステ」の渦中へと飛び込んでいったのだ。その後、彼女が歩んだ人生は以下のとおりだ。
大学院の在籍2年目を迎える頃、勉学に集中するために、「中国エステ」での仕事からは一旦離れている。その後、無事に修士課程を修了したものの、就職先が決まらなかった。しかし、日本で稼いで生活したいというチェ・ホアの想いは強かった。
「留学ビザ」が切れる前にほかのビザを取得しなければ、と「投資・経営ビザ」に切り替えるために、貯金から500万円を投じて会社を設立。そこで、ファッションとITを融合した事業を始めてみたが、残念ながらこの事業がうまくいくことはなかった。
就職もできず、事業も失敗。それまで貯めてきた1000万円近くの現金もほとんどなくなってしまった。そんな八方塞がりの状況を打破するべく、チェ・ホアはふたたびマッサージの世界に戻ることを決める。今度は自分自身がママとなって「中国エステ」を開業することにしたのだった。
そして、2008年、知人の日本人を店長として「中国エステ」の経営者としての生活がスタートした。