経営が本当に苦しい決断を迫られるとき、問題の構造はそう単純ではない。そんなときどうするか。合理的に考え尽くした末に、何かを「捨てる」ことにこそ、戦略の本質はある。そして戦略を実行する段においては、関係者の情理・情念を理解しなければこじれるし、流されて妥協すれば目的は達成されない。「合理」と「情理」の両面を見据えて、逃げないことが何より大切である。
「選択と集中」という言葉に感じる欺瞞
多角化企業が多い電機業界などを中心に、10年以上も叫ばれてきた「選択と集中」という言葉がある。ただし私は、日本語的に卑怯な表現だと思う。同義語反復で、2つ並べる意味がない。本来は「捨象と集中」でなければならないはずだ。捨てた後、残したものに集中する、ということである。
その言葉の選び方ひとつにも、「捨てる」ことへの嫌悪感が見て取れる。しかし、多くの場合は、捨てることにこそ戦略の本質があると感じている。本来、戦略的意思決定というのは、何を優先させるか、あるいは右か左のどちらに進むかという議論であり、何かを捨てなければならない。常に引き算の議論、「あれかこれか」の判断なのだ。
そんな究極の選択は、ビジネス上でいくらでも起こる。
たとえば、企業でリストラを断行しなければいけない。300人削減する場合に、300番目で削減対象となった従業員は、お子さんが大学進学を迎え、リストラになればその進学は諦めさせることになるかもしれない、というケースがあったとする。301番目で辛くもリストラ対象から逃れた従業員は、実家が資産家で子どももおらず食うには困らない。こういう場合、あなたはどう決断するだろう?
300番目と301番目の対象者を入れ替えたりするだろうか。そんなことをして倫理や規範を犯すのは確かに問題だ。だが、規範通りにリストラを実行すれば、若者がひとり進学の夢を絶たれることになる。果たして、どちらが正しいのか。これは、誰にも分からない問題だ。
そこまで経営状態が深刻でなく、人員削減まで伴わないケースでも、例えばメーカーがある分野から撤退するとなるといろいろな悲劇が起きる。今なら会社にまだ余裕があり、何とか人員削減を回避できる場合でも、その分野で長年、技術開発をしてきた人にしてみれば、長い間やってきたことを否定されたに等しく、経験や技能もその後の社内ではほとんど役に立たなくなる。仮に給料を払い続けてくれるにしても、ひとりのエンジニアとして投入してきた何十年という時間は2度と戻ってこない。
彼らのそんな思いに気を取られると、ついつい撤退の意思決定に逡巡が生まれる。そうやって躊躇しているうちに状況はどんどん悪化し、結局、大量解雇を伴わなければ撤退もできない状況にまで追いつめられる。最近の日本企業の苦境を巡る話は、この手の話のオンパレードだ。