開催する最後の意義は「アスリートのため」

 五輪を開催する最後の意義があるとすれば、五輪を目標に血のにじむような研さんを積んできたアスリートのためだ。東京五輪開催に反対でも、池江璃花子選手が白血病から奇跡的に復活し、五輪代表権を獲得したことに、拍手を送った人は多いだろう。

 また、それは我々のためでもある。大坂なおみ選手、松山英樹選手、大谷翔平選手らの活躍に我々がどれだけ励まされているかを考えることだ。アスリートの活躍の場を確保することこそが、コロナ禍に苦しみ、荒れがちになる我々の心を支えるのではないだろうか。

 アスリートたちにとっては、五輪が東京で開催されるかどうかは、突き詰めると大きな問題ではない。それよりも、4年に一度の、偉大な王者を決定する競技会があり、そこでベストのパフォーマンスを披露できることが大事だ。そこに彼らの「人生」がある。

 つまり、すべての競技を東京で開催する必要はないのではないだろうか。

 一部の競技を、東京以外で開催してもいいのである。すでに、マラソンが札幌で開催されることになっているが、他の競技も国内の他都市で開催したり、海外でも可能な都市があれば、分散開催してもいいのではないか。

 もちろん、それを許せない人たちがいる。東京五輪が、昭和の高度経済成長期の成功体験を強く持っている世代の「夢よ、もう一度」の願望から、日本の国力を世界に示す「国威高揚策」として招致されたものであるのはいうまでもない(第268回)。

 東京五輪のインバウンドで景気回復という政府や経済界のもくろみや、一儲けと考えたテレビ局、広告代理店、スポンサー、IOCの面々のさまざまな思惑もある。

 だが、コロナ禍で「東京五輪の夢」は雲散霧消したのだ。そして今、「東京」にこだわっているのは、突き詰めれば、そういう五輪に「夢」を抱いた人たちだけだ。そんな「夢」は、正直どうでもいいと思う。