医学の歴史を変えた

 アスピリンはなぜ痛みに効くのか。その原理は少し複雑だが、薬理学の講義で医学生が必ず学び、試験にも頻出の大切な知識である。

 アスピリンの主な作用は、プロスタグランジンを産生する酵素、シクロオキシゲナーゼを阻害することである。プロスタグランジンとは、炎症を促す物質の総称だ。

 例えば、傷口がひどく膿んだときを想像してみよう。そこでは、白血球が集まって細菌と激しく戦っている、いわば「戦場」である。

 毛細血管が拡張して血液が集まるため、赤く腫れて熱を持つ。白血球とともに血管内の液体が血管の壁を透過して滲出液になり、これが白血球の「死骸」と混ざってドロドロした膿になる。

 ブラジキニンと呼ばれる、痛みを引き起こす物質が産生され、傷口はズキズキと痛む。こうした一連のプロセスが「炎症」である。

 プロスタグランジンは、このプロセスを促進する方向に働く。また、プロスタグランジンは脳の視床下部にある体温調節中枢に働きかけ、体温を上昇させる。体の炎症がひどくなれば熱が出る、というのは、経験上理解しやすいだろう。

 逆に、アスピリンによってプロスタグランジンの産生が抑えられると、これらのプロセスが阻害される。必然的に、痛みは軽くなり、熱が下がる。アスピリンが「解熱鎮痛薬」と呼ばれる理由である。

 現在広く使用される解熱鎮痛薬には、ロキソプロフェン(ロキソニン)、イブプロフェン(ブルフェン)、ジクロフェナク(ボルタレン)などがあるが、これらはアスピリンと同じ作用を持ち、「非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)」と総称される。

 いわゆる「痛み止め」と「熱冷まし」は、いずれもこれらの薬の作用を表す言葉である。

 先に述べたように、サリチル酸は胃への副作用が強かった。軽減されたとはいえアスピリンにも同じ副作用はあり、胃や十二指腸の潰瘍(合わせて「消化性潰瘍」)は、NSAIDsに共通する副作用である。「痛み止めが胃を荒らす」という事実は、誰もがよく知っているはずだ。

 この副作用が起こるのは、胃や十二指腸の粘膜を保護する作用を持つプロスタグランジン(E2やI2というタイプ)の産生が阻害されるからである。胃の中は、胃酸によって極めて強い酸性環境になっている。NSAIDsによってプロスタグランジンの産生が抑えられると、粘膜の保護が弱くなり、胃酸が胃や十二指腸の壁を傷つけてしまうのだ。

 まさに、あちらを立てればこちらが立たず。プロスタグランジンも、当然ながら体になくてはならない物質なのだ。

 そこで、NSAIDsを長い期間服用するときは、胃薬で潰瘍を予防する必要がある。もちろん、どんな胃薬でもいいわけではない。NSAIDsを長期に使用する際に、消化性潰瘍の予防効果が証明されているのは、プロトンポンプ阻害剤、プロスタグランジン製剤、H2受容体拮抗薬と呼ばれるタイプの胃薬だけである(1)。

 ともかくアスピリンは、その抜群に優れた機能によって医学の歴史を変えた。本来「アスピリン」は商品名だが、今や一般名として使用されるようになっている。ちょうど、ホチキスやサインペン、マジックのように、商品名があまりに有名になりすぎたせいで、一般名のごとく頻用されるのと状況は似ている。

 ちなみに、アスピリンの開発秘話として、必ずホフマンの親孝行話が美談として語られるのだが、必ずしもそれだけが真実ではないらしい。製薬業界に精通した研究者、ドナルド・R・キルシュは『新薬という奇跡 成功率0・1%の探求』(ハヤカワ文庫)の中で、真の功労者はユダヤ人研究者アルトゥル・アイヒェングリュンだとしている。アイヒェングリュンはアスピリン開発に直接かかわった中心人物で、バイエル社の命運を変えた張本人だが、その功績はナチスによって隠蔽されたという。

 いずれにしても、歴史を変えるような新薬の開発は、多くの研究者たちの英知が結集して成し遂げられたものだ。どの薬とて、ただ一人の着想によるものではない。必ずしも歴史に名を残すことのない、数えきれない研究者たちの血の滲むような努力によって私たちは救われているのだ。

【参考文献】
(1)『消化性潰瘍診療ガイドライン 2020 改訂第3版』(日本消化器病学会編、南江堂、二〇二〇)

(※本原稿は『すばらしい人体』からの抜粋です)