唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならはなにでできているか?、「深部感覚」はすごい…。人体の構造は、美しくてよくできている――。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、Twitter(外科医けいゆう)アカウント9万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』が発刊された。坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

ノーベル医学生理学賞を受賞した研究者を成功に導いた「たった1つの偶然」とは?Photo: Adobe Stock

ピロリ菌の発見

 ヘリコバクター・ピロリ、通称「ピロリ菌」と呼ばれる細菌は、胃がんを引き起こす最大の要因である。しかし、この奇妙な生物を人類が初めて知ったのは、ほんの四十年ほど前のことだ。

 ピロリ菌が発見されたのは、一九八二年である。それまで、胃の中に細菌は生息できないと思われていた。pH1という極めて強い酸性の環境だからだ。

 だが、オーストラリアの医師、ロビン・ウォレンは、胃に未知の細菌が存在することに気づき、培養を試みた。この細菌が生きていることを証明するには、培養して増やす必要があるからだ。この研究には、同じくオーストラリアの医師であるバリー・マーシャルも加わった。

 培養は、胃の表面をこすりとって得た検体を培地の上に撒き、細菌が増えるかどうかを確認することで行う。培地とは、細菌が生きるのに必要な栄養を豊富に含む素材のことだ。

 ところが、予想に反して実験は難航した。何度試みても、細菌は培地の上で全く増えなかったのだ。

 彼らを成功に導いたのは、一つの偶然だった。復活祭の休暇を取ったマーシャルが、うっかり五日間も培地を放置してしまったのだ。

 意外なことに、この長期間の培養が決め手になった。増殖スピードの遅いピロリ菌は、彼の休暇の合間を利用し、培地の上に見事な塊をつくったのである。

 顕微鏡で観察すると、そこにはこれまで報告されたことのない、らせん状の細菌が存在していた。ウォレンとマーシャルは、らせん状(helical)の細菌(bacteria)であることと、「幽門(pylorus、胃の出口のこと)」に存在したことにちなみ、この細菌をヘリコバクター・ピロリ(helicobacter pylori)と名づけたのである。

 とはいえ、胃にピロリ菌がいるというだけでは、病気の原因になるとは言い切れない。ピロリ菌が本当に胃の病気を引き起こすのか。それを証明するためにマーシャルが行ったのは、自らの体を使った人体実験だった。

 一九八四年、マーシャルは、ピロリ菌が胃炎と関連することを証明するため、自らピロリ菌を飲み込んだ。その結果、ひどい胃炎と胃潰瘍を引き起こしたため、これを論文として報告したのだ。細菌の存在に懐疑的だった周囲の人たちを納得させるのに十分な結果だった。

 のちにピロリ菌は、胃がんを含めさまざまな病気とかかわっていることが知られ、公衆衛生に与える影響が非常に大きいことがわかってきた。

 ウォレンとマーシャルは、ピロリ菌を殺す除菌療法の研究も行った。現在は、二種類の抗生物質と一種類の胃薬を一日二回、一週間内服するという除菌療法が行われている(三剤が一パックになった製品がある)。マーシャル自身も併用療法を受け、ピロリ菌の除菌に成功したといわれる。

 二〇〇五年、マーシャルとウォレンは、これらの功績によってノーベル医学生理学賞を受賞した。

 ところで、なぜピロリ菌は強酸性の環境でも生きられるのだろうか? 実はピロリ菌は、アルカリ性であるアンモニアを産生し、自らの周囲の強酸を中和できるのだ。

 敵もさるもの。厳しい環境で生き延びるため、独自の進化を遂げていたのである。

(※本原稿は『すばらしい人体』を抜粋・再編集したものです)