日本メディアの誤訳によって、イメージは修復不可能に

 五輪開幕直前に、グローバル市場調査会社のイプソスが世界28カ国に行った世論調査の結果が興味深い。

 オリンピックが予定通りに開催されることを最も支持しているのは、トルコ(71%)、サウジアラビア(66%)、ロシア(61%)、ポーランド(60%)だが、開催国である日本では「開催すべき」が22%、「開催すべきでない」が78%で、開催への支持は非常に低くかった。米国でも「開催すべき」が52%あった。つまり開催国の民にとってオリンピックは招かれざる客になりかねない状況であった。

 バッハ会長はそんな中で世界の団結を訴え続けた。それが「日本の空気を読めない人」とのレッテルが張られ、やることなすことネガティブに捉えられることとなった。

 彼の発言については日本のメディアの誤訳も続いた。中でも最もひどい誤訳が国際ホッケー連盟のリモート総会での一言、“We have to make some sacrifices to make this possible.”だ。これを、日本のメディアは「五輪を実現するためには、誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない」というような旨で報道した。

 しかし、これは誤訳だ。バッハ会長が指した「犠牲」とは、参加者の削減、選手村と競技会場など移動範囲の限定、予選中止、選手選考の変更などであり、日々の健康管理のためにスポーツ以外に神経を使わなければならないことも入る。五輪開催が平時のように完璧なものにならないことを覚悟して、妥協していかなければならないことを伝えようとしたのである。

 ところが、このメッセージが、日本に来るとWeが「誰もが」になり、苦しむ日本人に犠牲を払えとIOCが言っているとなった。そのことに反応する識者たちが、五輪批判を展開し、原語に当たることができない読者や視聴者たちには、強権IOCの傲慢と映ることになった。共同通信は「『われわれ』に日本人を含める意図があるのかは不明」と玉虫色解釈をしたが、Weとは、共に東京五輪開催に向かっている人の意味であり、東京五輪に反対の人がそこに入る必要はない。

 東京五輪が終わってもバッハ氏のイメージは変わることがなかった。