「女をバカにする男を批判したい」気持ちが最初からあっただけじゃないのか
「あ、持っててくれてありがとう」
「はいよ」
コーヒーとミルクを入れ終わった女は、男の手からカップを受け取り、蓋を閉めて、そのコーヒーを自分の口に運んだ。
男の太い腕は、前の席へとおさまっていった。
え。
にわかには、どういうことなのか、理解できなかった。
つまりは、こういうことだというのか。
妻は、飛行機がガタガタしていて不安定だから、夫にコーヒーを持ってもらい、砂糖とミルクを入れていただけだった、と。
私の勘違いだったのだ。
思い過ごし。
なんだ。
いや、でも、ただの思い過ごしで、済ませていいものなのだろうか。
済ませたらダメなような気がした。
そのとき私は、あまりにも単純な自分の思考回路に、ぞっとした。
私は、真実を見ようとしているのではない。自分が見たいように世の中を見ているのだということに、気が付いたからだった。
飛行機の前の席に、配慮のない中年男性がきたとき、「うしろの人に許可を取らずにシートを倒す」という一つの仕草を見ただけで、「きっと女に高圧的な態度をとるのだろう」という偏見をもった。しかも、ほとんど無意識に。
本来であれば、「飛行機内で配慮がない」ということと、「女に高圧的」ということに因果関係はないのに、私は「ここでマナーのない人は、他の場面でもそうに決まっている」という推測のもと、心の中で批判をした。強く、強く批判をした。
もし私が最後まで状況を確認していなかったら、「嫁にやらせてる旦那、最悪!」と思ったままだっただろう。
あるいは、私が見ている世の中というのは、私によって生み出された偏見に満ち溢れているんじゃないか? と恐ろしくなった。
そもそも、「飛行機内でリクライニングをするときは、後ろの人に声をかけるのがマナー」という考え方すらも私が勝手に生み出した「常識」に過ぎないじゃないか。その「常識」通りの行動をしないというたった一つの出来事だけで人間性を判断してしまう私の思考の方がよっぽど、暴力性を孕んでいるのではないか?
何が、「私自身は決して人のことを貶めるようなことはしない」だよ。コンマ1秒で勝手に判断して勝手にステレオタイプに当てはめて勝手に批判してるじゃないか。
私が真実だと心の底から信じているものは、はたして、真実なのだろうか?
私は、物事を、世の中を、そっくりそのままで見ることができない人間なのだと、つくづく思い知ってしまった。
もしかしたら本当は、「女をバカにする男を批判したい」という気持ちが私の中に最初からあって、そのとき都合よく、批判するネタが転がってきたという、それだけの話だったのかもしれない。
偏見を持つことなく、フラットに物事を見るというのは、なんて難しいことなんだろう。
飛行機の中、窮屈なエコノミークラスの席。
心の中で小さく、ごめんなさい、とつぶやく。
前の席の男に対してなのか、世の中に対してなのか。
急速にこみ上げてくる申し訳なさを吐き出すように、深呼吸をする。
「そろそろ、着くかな」
飛行機は、仙台の上空を旋回していた。
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。