地理とは「地球上の理(ことわり)」である。この指針で現代世界の疑問を解き明かし、6万部を突破した『経済は地理から学べ!』。著者は、代々木ゼミナールで「東大地理」を教える実力派、宮路秀作氏だ。日本地理学会企画専門委員会の委員として、大学教員を中心に創設された「地理学のアウトリーチ研究グループ」にも参加し、精力的に活動している。2022年から高等学校教育で「地理総合」が必修科目となることが決定し、地理にスポットライトが当たっている。本記事は、昨今のウクライナ情勢を受け、ロシアとウクライナの関係にスポットを当てた宮路氏の寄稿だ。
ロシアとトルコの歴史を振り返る
ロシアのウクライナ侵攻において、トルコが仲介役として、独自の外交を展開しています。歴史を振り返りながら、その背景を考えていきましょう。
1768~75年の第一次露土戦争にて、帝政ロシアはオスマン帝国に勝利して、黒海周辺の領土を手に入れます。この時に帝政ロシアは黒海への出口を得ました。
さらにオスマン帝国内に住む正教会信者を保護する権利をオスマン帝国に認めさせます。これが後に、帝政ロシアの他国への内政干渉の口実として利用されていきます。特にバルカン半島に進出していくさいに利用されました。さらに黒海で艦隊を建造する権利、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の商船の自由通行権を得ました。
しかし、ロシアが領土を拡大すればするほど、結局は異民族を自国内に取り込み少数民族として住まわせることとなるので、国内に「紛争の火種」を抱えていくことなるわけです。これが、ロシアが多民族国家となっている理由でもあります。チェンチェン紛争などが好例です。
1833年になると、ウンキャル・スケレッシ条約が結ばれ、帝政ロシアの艦隊にボスポラス海峡とダーダネルス海峡の独占的航海権を与えることとなりました。この見返りとして、ロシアはオスマン帝国への援助を約束します。
実際に1839年の第二次エジプト=トルコ戦争のさい、帝政ロシアはオスマン帝国を支援しました。また中東地域におけるオスマン帝国の安定が必要と考えて、イギリスもまたオスマン帝国を支援しました。その後のロンドン会議にて、ウンキャル・スケレッシ条約は破棄され、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の軍艦航行は再び禁止されることとなりました。