伊能忠敬の遅咲き人生
伊能忠敬といえば、日本全国を歩いて回って計測し、初めて日本地図を完成させたことで有名ですが、彼が実際に測量に出かけるようになったのは56歳の時のことで、そこから15年間、71歳になるまで、足かけ16年かけて、全国測量を行いました。
忠敬が前人未踏の大仕事を手がけていたのは爺になってからなのです。
だからといって若いころにぼんやり暮らしていたわけではありません。
上総国の名主の小関家に生まれた忠敬は、7歳の時に母を亡くすと、婿だった父は離縁され、忠敬だけが小関家に残されます。そして1762年、18歳で下総国の伊能家に婿入りする。
算術好きな忠敬は天文暦学に興味を持ちながらも家業を盛り立て、天明の大飢饉や凶作も乗り切りながら、家督を長男に譲ることで隠居を果たします。時に50歳。翌年51歳で、念願の天文暦学を学ぶため、江戸の深川黒江町(今の門前仲町)に引っ越します。
幕府の天文方をつとめる高橋至時の弟子になるためです。
今で言えば、定年後、留学するようなものでしょうか。
婿としての仕事を勤め上げ、家督を長男に譲った50歳を過ぎて、やっと念願の天文学を学ぶことができたのです。
そんなころ、蝦夷地(北海道)にロシアがやって来て、日本との国交を幕府に求めていた。ロシアが日本の領土を狙っているのではと警戒した幕府は、ロシア対策のため、蝦夷地の地図を必要としていました。そこで至時は蝦夷地測量を願い出て、その許可が1800年に下ります。こうして忠敬と共に歩測で距離を測りながら、蝦夷地と奥州街道の地図を作って幕府に提出。これが最初の測量だったのです。
この時、忠敬56歳ですよ。
師匠の高橋至時は37歳。忠敬より19歳年下です。
ところが、この師匠の至時は、4年後、41歳の若さで病死してしまいます。