「痛みを抱えることを許してもらえなかった自分」は、ずっと心の中で叫び続ける

そうなるまでにはさ、時間はかかるけど、大きな傷であればあるほどとんでもなく長い時間がかかるけど、それはもうしょうがない。簡単に傷が癒えるわけないよ。でも無理にその傷を問題化し、解決しようとすると、また別の新たな傷を作りあげることになりかねない。私も過去に、自分が傷ついたことを受け入れられなくて、無意識のうちに人を傷つけるような行動をとってしまったことがある。他人を否定することで、相手が「間違っている」と断定することで、自分を正当化しようとしたのだ。「私は絶対に間違っていない」と信じたいがために、「相手が間違っている」理由を必死に後付けした。

でも、「相手を傷つけてしまった」という事実は自分の心にさらに深く大きな傷を作ったし、私はより長い時間、上書きされた傷に苦しめられることになった。心がスッとし、楽になれたのはその一瞬だけだった。私の心の弱さが引き起こしてしまった過ちだった。結局あれから何年間も、今だってずっと、私はその行為と感情の捩れを悔やみ続けている。

苦しみの渦中にいると、どうしても「傷を今すぐに治療したい」と思ってしまうし、そうしてくれる何かや、誰かを求めたくなってしまう。私もそうだ。買い物依存になり、占い依存になり、SNSで新たな繋がりを求め、何か新しい行動を起こし続けないと落ち着かなかった。即効性のある何かを求めた。でも結局、「今、この瞬間の痛み」を乗り越えることしかできなかった。かさぶたになりきっていない半熟の傷を無理に治療し、跡形もなく消し去ろうとすると、「痛みを抱えることを許してもらえなかった自分」が、心の奥底に封印されたまま、その悲鳴を誰に聞いてもらうこともできずに、永遠と取り残されることになってしまう。

自分の悲鳴をちゃんと聞き、受けとめてあげられるのは、自分だけだ。そのあいだに、他者を媒介させちゃならないんだ。悲鳴を聞くための役割は、自分にしか務まらない。他者と触れ合うことで自分の心の本音に気がつく、ということがあったとしても、それはあくまでもきっかけであって、悲鳴を吸収してもらうという重荷を他者に背負わせたら、また新たな傷を生む。一度誰かに支配された心を取り戻しても、また別の誰かの支配下に移っていくだけだ。

本当に怖いけれど、怖くて怖くてたまらないけれど、支配された心を自分のもとに取り戻す勇気を持とう。恐怖に立ち向かおう。そうしないことには、いつまでたっても「誰かの人生」しか生きられない。

叫びたくなる日もあるだろう。ひどく痛んで、泣きたくなる日もあるだろう。でもそれをそれとして受け入れ、決して速いスピードではなくとも、心の中のひっそりとした小部屋の中でじっと座り込み、考え続けるその覚悟を、私は尊いと思う。愛しいと思う。見映えは決してよくないかもしれないが、それも一つの矜持だ。

誰かに傷つけられたとき、心は自分のものではなくなっている川代紗生(かわしろ・さき)
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。