「聞く力がある」の正体は
クレーム対応力
以上を勘案すると、「聞く力」がある人は、本来は、「共感力+理解力+実行力」の三つのすべてが備わっていなければならないはずだ。
この条件を満たす人といえば(資料の確かな近代に限って言えば)、渋沢栄一や田中角栄であろう。ひきもきらずいろんな人がその屋敷を訪れ、陳情し、それに対して、共感し、理解し、実行したのである。彼らは魅力的なキャラクターで人を魅了し、何をなすべきかを洞察し、さまざまなプロジェクトを手掛け、多様な領域のことを理解し、人を巻き込み、解決策を生み出し、実行させた。とはいえ、彼らが活躍した時代はいまと違って、社会の構造はずっと単純であり、最先端の技術や世界の状況もこれほどまでの複雑性はなかった。
よって、現在、いろんな領域の人の話を聞いて、理解し、実行するとことが可能となるのは、よほど特別に優秀なスタッフ群を抱えており、彼ら彼女らが支援してくれることが前提となろう。しかしながら、それはそれで、スタッフ間や、スタッフとその支援者の間にある影響力をめぐる内部の争いが発生する可能性がきわめて高くなり、それを上手にハンドリングできることが条件になる(よって現実的にはかなり難しい)。
さて、実際には、上記の三つの力を保有していないにもかかわらず、偉い人が自分は「聞く力」があると本気で思い込んでいる場合が存在する。
このケースの一つは、話者は「実行」することまで求めているわけだから、逆に話をしにくる人を「聞き手である偉い人が理解できる内容しか話さず、かつその内容が解決策まで実行できそうなものである」ような人物に、周囲やブレーンがコントロールして限定してしまう場合である。
自分が御す事のできる内容の話をする人にしか会っていなければ、偉い人は相手の話は理解できるし、解決策まで提示でき、それなりに実行できるから、結果的に自分は「聞く力がある」と確信(誤解)するであろう。
これは、側近が忖度(そんたく)して、偉い人に会わせる人を限定しさえすれば実現できる、かなり効果的な方法なのである。偉い人も自分に対して効力感をもてるので、常に上機嫌となり、周囲としてはありがたい(表敬訪問のようなものを除いて、会う人のバリエーションが乏しい偉い人はこの状況に陥っている可能性が高い)。
勘違いのもう一つのケースは、聞き手当人が「聞く力」と考えることが、「相手の話に『共感』し、その共感と少しばかりの『生半可な理解』をしただけで、十分に満たされていると考えている」場合である。
話を相手の立場に寄り添って聞き、ミラーリングやバックトラッキングを駆使して、「それは本当にたいへんでした。ご心情をお察しいたします……。それで、具体的なご質問としては、○○というようなことかと受け取りましたが、それで間違いないでしょうか」といった感じで丁寧に受け答えをすれば、相手は偉い人が“ちゃんと話を聞いてくれた”ということに感激してしまう。実際にはオウム返しをしているだけであるが……。
そして、もちろん解決策を示すことはない。「この問題はたいへん重要な問題で、○○や○○も考慮したうえで慎重に解決する必要があるので、担当にしっかり言ってきかせてやらせます」と言って、担当者にぶん投げておしまいである。
初歩的なクレーム対応の技術であり、株主総会での質問に対する対応の「いろは」の「い」として学ぶ事柄でもある。
聞く力を「共感力+理解力+解決力」と定義して認識しておれば、上記のやり取りができたくらいで軽々に自分に「聞く力」があるとは言えないだろう。しかし、「共感力」に力点があり、そこに多少の「理解力」が加わることをもって「聞く力」と認識しているのであれば、これはこれで「聞く力」があると言ってもおかしくはないとは思う。