全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉 敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。
その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。そこで本書で登場する歴史人物のなかから、とりわけユニークな存在をピックアップ。一人ずつ解説していきたい。今回は中国の暴君として知られる煬帝を取り上げる。民衆を虐げたと悪政ばかりが強調されるが、粗暴なイメージとは異なる意外な一面を持っていた。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。

中国のヤバい独裁者「隋の煬帝」の悲惨すぎる末路とは?Photo: Adobe Stock

中国史に名を残す「暴君」

 世界史の魅力はなんといっても、登場する歴史人物たちが多彩なことだろう。世界史を学ぶことで、時代だけではなく国境をも超えて、個性的な歴史人物の生き様に触れることができる。

 といっても、決して英雄ばかりが歴史を動かすわけではない。独裁者や暴君たちもまた世界史では注目される。隋の皇帝である煬帝(ようだい)も、その一人である。

アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』での解説にもあるように、中世の中国は「黄金時代」と呼ばれていた。

 220年に漢王朝が滅亡すると、魏晋南北朝時代の分裂時代を経て、隋が王朝となり、約370年間もの間、分裂していた南北中国の統一に成功している。

本当に暴君だったのか?

 にもかかわらず、隋の皇帝はたったの2代しか続かなかった。そのため、建国者で初代皇帝となる楊堅(文帝)がせっかくまとめ上げた国を、2代目の煬帝が暴政によってぶち壊してしまった……そんなイメージが強い。

 しかし、古今東西のどんなリーダーにおいても、良い面もあれば、悪い面もある。煬帝は本当にただの暴君だったのだろうか。

 その知られざる功績と、暴君とされたワケについて、解説していこう。

呼び名に込められた悪評

「名は体を表す」とはよく言ったものだが、煬帝の悪評は呼び名に込められている。

「煬帝」とは謚号、つまり、死後に後世の人々から与えられた名であり、唐王朝によって付けられたもの。

 実際の名前は楊広であり、本来は「楊帝」と名乗っていたが、生前の悪行から「天に逆らい民をしいたぐ」という意味で「煬」の字が当てられることとなった。

過酷な土木事業で民衆を虐げる

 煬帝が後世からそれだけ強く非難されたのは、過酷な大土木作業を国民に課したからだ。皇帝に就くやいなや、壮観な顕仁宮や西苑という大庭園を造るために、毎月200万人もの民衆をこき使って、大木を運ばせた。

 極めつきが、南北を縦断し、華北と江南を連結させる大運河の造設である。准水と黄河を結ぶ通済渠(つうさいきょう)と黄河と涿郡を結ぶ永済渠(えいさいきょう)、さらに揚糊江と余杭を結ぶ江南河(こうなんが)を造り上げた。

100万人以上の人々を駆り出す

 その距離はなんと1500キロにも及ぶ。通済渠・永済渠では実に100万人以上、江南河では10数万の人々が駆り出されている。

 しかも、ろくに食糧も与えられないという過酷な環境下で働かされたため、人々はバタバタと倒れていく。

 通済渠では人夫の3分の2が飢餓や疫病などで命を落としている。人を人とも思わないふるまいに、民衆が煬帝に怒りを募らせたのは、当然のことだ。

豪華すぎる舟旅に非難

 民衆たちにそれだけ過酷な目に遭わせておきながら、煬帝にはまるでその自覚がなかったらしい。

 通済渠が完成すると、煬帝は4階建ての豪華な龍舟に乗って江都に行幸している。

 龍舟の2階には120室も部屋があり、正殿、内殿・東西朝堂まで完備。内部は金銀で飾られているという、なんとも豪華な船だ。

 しかも、同じく絢爛な皇后の舟がまた別にあったうえに、煬帝の妾や部下たちの舟が数千隻用意されて、煬帝の舟の後についたという。舟列の長さは90キロにも及んだ。

捨てられる食べ物と人民の飢餓

 ド派手な煬帝の振る舞いを目にして、国民たちは悔しさにただ唇を噛んだ……のならまだマシで、沿岸の人々は、食物を献上することを強いられた。

 舟で豪遊する煬帝のために、次々と名産品を差し出さねばならなかったのである。

 煬帝は行く先々で山海の珍味に舌鼓を打ってご満悦だったが、食糧を差し出すほうは、たまったものではない。しかも、献上された食べ物は1州あたり車100台にも相当し、ほとんど食べ切れなかったという。

 飢餓でやせ細った人民たちの前で、大量の食糧が捨てられていくこととなった。

 煬帝への民衆の憎しみは募るばかりである。

知られざる土木事業の功績

 やりたい放題の煬帝だったが、その一方で、大運河の建設自体は、重要な国家プロジェクトでもあった。

 隋が南北を統一した以上、南北を結ぶ交通路を敷かねばならない。誰かがやらなければならない、難事業だったのだ。

 実際のところ、大運河の建設に着手したのは煬帝ではなく、父の文帝だった。

 ただ、当時はようやく戦乱が終わったばかりだったため、文帝は人々の休息を最優先し、急速な工事は避けていた。

大事業を成し遂げる

 そんななか、後を継いだ煬帝が強引に計画を推し進めたため、人民の反感を買うことになったわけだが、急速にプロジェクトが動き出したことの国益は大きかった。大運河の建設によって、江南への支配力は強化され、江南から豊かな物資を北に運ぶことも可能になった。

 さらにいえば、大運河のなかでも、女性を借り出してまで作った永済渠(えいさいきょう)は軍需物資を輸送するために、作られたもの。

 後年行われる高句麗遠征のための準備も、これで整えられた。大運河プロジェクトは、煬帝の強引さがあったからこそ、成し得た一大事業という見方もできるだろう。

暴君ぶりが強調された裏側

 それでも民衆を虐げてよいわけではもちろんないが、煬帝の逸話については、やや注意すべき点がある。

 それは、後世で伝えられるエピソードの多くが『隋書』の資料に基づいているということ。

『隋書』とは隋代を扱った歴史書で、『史記』や『漢書』と同じく、中国の王朝が定めた24書の正史「二十四史」の一つ。

 隋の次代の王朝である唐の皇帝・李世民が命じて、魏徴らが編纂したものである。

歴史は後世に作られる

 この李世民が、とにかく煬帝のことを嫌っていた。『随書』で、煬帝がことさら悪辣に描かれている可能性は高い。

 事実無根ではないにしても、すべてを真に受けるのはフェアではなさそうだ。

刑罰を軽くする人道主義の一面も

 また、悪政ぶりが強調されるばかりに、あまり触れられてない煬帝の政策もある。

 煬帝は即位してすぐに、律令の改訂を行っている。律令の「律」は「刑法」、「令」はそれ以外の行政法を指す。

 一体、煬帝はどんな法律の改訂を行ったのか。

 改訂の内容を見てみると、煬帝は500の法律のうち、200の法律にわたって、刑の軽減を行っているのだ。

 むしろ、重刑を加えたのは名君とされる父の文帝のほうだった。文帝は、官僚にこっそり賄賂を贈り、受け取ったものを死刑にしたこともある。

美しい詩を残す

 さらに意外なことに、煬帝には詩人としての一面もあった。各地を巡幸した際などしばしば詩作を行っていたという。

 名作の一つとして知られているのが『春江花月の夜』だ。そこで煬帝はこんな詩を残している。

「夕暮れの江水は平らで流れない。春の花は満ちて、今まさに盛りのように咲いている。川にきらめく月の光を、流れる波が持ち去っては、潮が星の光と共に満ちて来る」

 情景がありありと目に浮かぶような美しい詩だ。実は、前述した強烈な「アンチ煬帝」である李世民ですらも、煬帝の詩には感嘆していたという。

 さすがに名君とは言えないまでも、煬帝をただの暴君とくくってしまうと、その本質を見誤ってしまいそうだ。

悲惨な最期

 その最期は諸説あるが、最も親しい側近の宇文化及らに反旗を翻されて、家臣2人に殺害されたといわれている。

 しかも、煬帝は観念して毒酒により自害しようとしたが、許されなかったという。よりによって「真綿でじわじわと首を絞められる」という悲惨すぎる殺され方で、50年の生涯を閉じた。

 周囲を巻き込むパワフルな歴史人物ほど、極端な評価になりがちだ。また時代によっても、評価が移り変わってゆく。

世界史を学ぶ醍醐味

 単純には善悪を語れない複雑さを持ち、だからこそ魅力あふれる歴史人物たち。彼ら彼女らと時空を超えて対話できるのも、世界史を学び直す醍醐味ではないだろうか。


【参考文献】
砺波護、外山軍治『中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国』(中公文庫)
宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫)
布目潮風『つくられた暴君と名君 隋の煬帝と唐の太宗』(清水書院)
※布目潮風の風は「さんずいに風」が正式表記
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』(筑摩書房)
布目潮風、栗原益男『隋唐帝国』(講談社学術文庫)

【訂正】記事初出時より以下の通り訂正します。1ページ目5段落目:220年に漢王朝が滅亡すると、隋が王朝となり→
220年に漢王朝が滅亡すると、魏晋南北朝時代の分裂時代を経て、 隋が王朝となり、
(2022年8月8日09:38 書籍オンライン編集部)