情報が次から次へと溢れてくる時代。だからこそ、普遍的メッセージが紡がれた「定番書」の価値は増しているのではないだろうか。そこで、本連載「定番読書」では、刊行から年月が経っても今なお売れ続け、ロングセラーとして読み継がれている書籍について、著者へのインタビューとともにご紹介していきたい。
第3回は2019年に刊行、正義とは何か、というテーマを小説仕立てで解説、大きな話題となり、今もロングセラーを続けている飲茶氏の『正義の教室 善く生きるための哲学入門』。4話に分けてお届けする。(取材・文/上阪徹)

正義の教室 善く生きるための哲学入門(飲茶氏インタビュー#03)Photo: Adobe Stock

ポジショントークが結局、人間のすべて

 高校を舞台にした小説仕立ての哲学入門にして、「正義とは何か」をテーマにした『正義の教室』。3人の女子高校生がそれぞれ主張する、平等の正義「功利主義」、平等の正義「功利主義」、宗教の正義「直観主義」に翻弄される主人公の優柔不断な男子高校生の成長を描いていく。

 平等の正義「功利主義」の理念『最大多数の最大幸福』は一見、素晴らしいものに見えるが、どこに問題が潜んでいるのか。自由の正義「自由主義」のキーワード、自由を否定する人はいないと思うが、そこに潜む危険は何か。宗教の正義「直観主義」が信じる道徳やモラルのベースになっているものは、果たしてどこから来ているのか。

 正義に対する3つの考え方が厳しく論破されていくシーンは圧巻で、それぞれの女子高校生が持っている考え方に共感していた読者は衝撃を受けることになるが、本書を書き進めるにあたって著者の飲茶氏が気をつけたことがあるという。

「それぞれのキャラクターの正義は、そのキャラクターの人生に深く関わっていることです。最初は、ストーリーとして説得力を持たせるためにキャラクターの背景をちゃんと作るようにしたほうがいいよね、くらいに考えていました。ただ、やっぱり人の考え方は、環境や経歴によって変わるんですよね。ポジショントークが結局、人間のすべてだと思っているところがあって。だから、すごく論理的に作ってあります」

 お金がなくて虐げられてきた、という人生経験を持つ人であれば、当然、それが考え方に大きな影響を及ぼすことになることは間違いない。

「結局、何を正しいと思うかが、その人の人生をすべてあらわしてしまっているところがあると思うんです」

飲茶(やむちゃ)
東北大学大学院修了。会社経営者。
哲学や科学などハードルの高いジャンルの知識を、楽しくわかりやすく解説したブログを立ち上げ人気となる。日常生活に哲学的思考を取り入れてほしいという思いから、哲学サロン「この哲学がスゴい!」を主宰。著書に『史上最強の哲学入門』『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』『14歳からの哲学入門ーー「今」を生きるためのテキスト』(すべて河出文庫)などがある。

自分が実際に突きつけられないと、気づけない選択

 物事に対してどんな考え方を持つか。シビアな場面になればなるほど、そこに人生が姿をあらわすことになる。

「パンが好きか、ご飯が好きか、であれば、どっちでも構わない。ただ、これは本にも出てきますが、いじめはいけないことだ、と考えていじめられっ子を助けた結果、余計にいじめがひどくなる、ということもあるわけです」

 やろうとしたことは正しいけれど、結果的にたくさんの人が不幸になっているという事実もあるのだ。

「そういうとき、何が正しいかと考えるのは、その人がどうやってこれまで生きてきたのかに関わってくると思うんです。そのくらい大事な話なのに、意外にみんなそこがぼんやりしてしまっている。自分は何を正しいと思うのかに向き合うことで、自分がどんな人間で、何を大切に思っているかがわかると思うんです。でも、自分がどっちを選択するのか、実は突きつけられないとわからなかったりする」

 それを突きつけられる演習のようなものも、『正義の教室』には登場する。飲茶氏は、倫理学の本では当たり前に登場するもの、と語っていたが、やはり興味深い。例えば、「トロッコ問題」。

 たしかそれって「トロッコ問題」とかいうやつだったかな。
1.暴走したトロッコの先に5人がいて、そのままトロッコが突っ込むと5人全員が死んでしまう。
2.でも、あなたが路線を切り替えるレバーを引けば、5人の命を助けることができる。
3.しかし、そうすると今度は切り替えた路線の先にいる別の1人にトロッコが突っ込み、本来無関係のはずの人間が1人犠牲になってしまう。
 つまり、こうした状況設定において「さあ、あなたならどうするか」という話で、ようは「そのまま5人を見殺しにすべきか? それとも1人を犠牲にして5人を救うべきか?」という問題だ。

 犠牲になる1人が赤の他人だった場合は、人は冷静に考えるだろう。しかし、突きつけられるのは、犠牲になるのが自分の恋人だったり、家族だったり、唯一かけがえのない人だったらどうかだ。「正義」とは、そう簡単に語れるものではないのである。

誰かを幸せにするために、自分が犠牲になれるか

 演習のようなものは他にもある。これも有名だということだが、「臓器くじ」だ。誰もが幸福を最大化すればいいという「功利主義」の問題点を説いたものだ。

「そんなキミには『臓器くじ』の話をしてあげよう。世の中には、不運にも病気になってしまい、すぐにでも臓器を移植しなければ死んでしまう人たちがたくさんいる。そんな彼らを救うため、ある功利主義者がこんな法案を考えたとする。くじ引きで国民の中から無作為に誰かを選び、その人を強制的に連れ去る。そして、その人の身体をバラバラに分解して、心臓、肺、肝臓、小腸などの臓器を移植用に取り出す。そうすることで複数の病人を救おうという法案だ。さて、功利主義に賛成する君に問おう。この法案は正義だろうか?
「それは……もちろん正義ではなくて……悪いこと」
「いやいや! その答えはおかしいだろう!(中略)なぜなら、ひとつの苦痛によって多数の苦痛が無くなるからだ。功利主義の原理から言えば、これこそ正義ではないのかね!」

 もう一つ、「嘘をついてはいけない」は完全に善だという道徳規則を持つ宗教の正義「直観主義」に対して、こんな問いかけが行われている。

「あるとき、その道徳規則を気に入らない人が、カントにこんな意地悪な質問をした。家に殺人鬼がやってきて、家族の居場所を訊いたとする。もし、家族の居場所を教えてしまえば、殺人鬼はその足で家族を殺しに行くだろう。さあ、キミは殺人鬼に何と答えるべきだろうか?」

 他にも「無知のヴェール」「ヒュームの法則」などが登場する。ストーリーの中で巧みに出てくるだけに強く印象に残る。そして、正義というものの難しさを改めて痛感するのである。
(次回に続く)

(本記事は、『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の著者・飲茶氏にインタビューしてまとめた書き下ろし記事です)

上阪 徹(うえさか・とおる)
ブックライター
1966年兵庫県生まれ。89年早稲田大学商学部卒。ワールド、リクルート・グループなどを経て、94年よりフリーランスとして独立。書籍や雑誌、webメディアなどで幅広く執筆やインタビューを手がける。これまでの取材人数は3000人を超える。著者に代わって本を書くブックライティングは100冊以上。携わった書籍の累計売上は200万部を超える。著書に『成功者3000人の言葉』(三笠書房<知的生きかた文庫>)、『子どもが面白がる学校を創る』(日経BP)、『10倍速く書ける 超スピード文章術』(ダイヤモンド社)ほか多数。またインタビュー集に、累計40万部を突破した『プロ論。』シリーズ(徳間書店)などがある。

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