ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「生きる力が湧いてきた」「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「やりたいことが何もない大人」が学ぶべきラテン語の教えPhoto: Adobe Stock

「勉強」の語源に学ぶ、人生を好転させる考え方

「勉強する」というラテン語の動詞の原形は「ストゥデレ studere」で、英語の study はこの studere に由来しました。

 studere の本来の意味には「専念する、努力する、没頭する」があり、つまり“心から望む何かに力を注ぐこと”が「勉強する」という意味なのです。

 朝鮮王朝時代の儒学者である李退渓(りたいけい)も似たようなことを言っています。

 李退渓の「敬」の思想を学習法に適用するなら「わき目も振らず、ひとつ所に集中すべし」と解釈できますが、李退渓もこれを学びの大原則であると説きました。

 李退渓が知人に送った手紙で「学んだことを血肉にするために重要なことは、何事であれ集中すること、すなわち精神統一が最もよい方法である」とつづっています。

 つまり、自分に合った学び方を探すことが勉強の第一歩といえます。その過程を通じて、私たちは「自分」についても深く知ることになります。自分に合った学び方を知ることで、自分が「何が好きで、何が嫌いなのか」「どんなときに集中できるのか」などがわかります。

 こうした訓練が、ひいては人間関係における自らの態度や話し方など、人生の多くのことを考えさせてくれます。人生で重要なことはひとまねではなく、自分のやり方を探していくことです。とっておきの秘策や近道がないことは苦しいですが、私たちはそうやってコツコツとやっていくしかないのです。

 新約聖書『ルカによる福音書』13章33節に収録されている一文は、そんな人間の生き方を物語っています。

Verumtamen oportet me hodie et cras et sequenti die ambulare.
ヴェルムタメン・オポルテト・メ・ホティエ・エト・クラス・エト・セクエンティ・ディエ・
アンブラレ
(しかし、今日も明日も、またその次の日も、私は進んで行かねばならない)
※発音はローマ式発音(スコラ発音)を基準にしています。

 みなさんは自分の道を見失うことなく前進していますか。

 その道を歩きながら、どんなことを考えているでしょうか。その道を楽しむためには何をしたらいいでしょうか。そしてその道の先には何があるでしょうか。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)