ラテン語こそ世界最高の教養である――。超難関試験を突破し、東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「毎日がつまらない」絶望するあなたを変える「大人の勉強法」Photo: Adobe Stock

なぜ私たちは勉強するのか?

 私はいつも、自分のことを〈エゴ・スム・オペラリウス・ストゥデンス Ego sum operarius studens〉と言っています。「私は勉強する労働者です」という意味ですが、ラテン語の動詞には人称が含まれているため、1人称と2人称の主語は省略します。

 しかし、この文には1人称主語として「エゴ ego」が登場します。egoは、ラテン語で「私」という存在を強調するときに1人称主語として用いられます。

 それにしても「勉強する労働者」だなんて、何だか嫌な響きでしょうか?

 ただでさえ苦しい勉強が、より一層大変に感じられるかもしれません。しかし実際に勉強は大変なものです。退屈かつ厳しい学問の道のりは、楽しさより苦しみのほうが勝るものです。

 私自身も、苦痛を感じることなく勉強できたらどんなにいいだろうかと思うことがあります。足かけ30年以上勉強してきましたが、ただの一度も楽だと感じたことはありません。

 それでも勉強を続けてきた理由を挙げるとしたら、「会社は辞めると退職金が出るが、勉強は途中でやめても自分に何も残らないから」でしょうかね。

「勉強は一生続けたほうがいい」と断言できる理由

 勉強は自己の成長を学ぶよい過程です。苦労して勉強する過程の中で、自分の内面を深く知ることもできるのです。

 満足のいく結果を得られなかったときには自身の限界に気づかされ、他人と比べながら挫折を味わう日もあるでしょう。驚くほど最低な自分を発見することがあるかもしれません。

 しかし、自分の心と向かい合う努力を怠らなければ、あなたの目標はきっと達成されることでしょう。

 私は勉強する労働者です。学びという労働の道のりで、自分を磨き続ける労働者です。私はこのことが嫌いではありません。あなたは、果たしてどんな労働者ですか?

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)