日本の高等教育で
欧米と真逆な「自由」が必要なわけ

 ただし、この欧米流の「躾」教育には、大学に入学する前に、学生が既に「個性」や「考える力」を身に付けているという前提がある。この前提を考慮することなしに、欧米流を日本にそのまま導入すると、思わぬ落とし穴にはまってしまうことになる。

 日本の教育というのは、基本的に子どもの頃から、「集団」に適応するためのスキルを身に付けることに主眼がある。

 幼少時から小中高の学校においては、「社会性を身に付ける」「集団の和を乱さない」ことが重要視される。「個性」は、あくまで集団の枠をはみ出さない範囲内で認められるということをたたき込まれる。

 また日本では、大人が子どもに対して、先回りしていろいろなことを段取りするケースが多い。例えば日本の子どもは、将来の「お受験」のために、幼稚園の頃から幼児教育の塾に通わされる。小学校入学後も同じだ。

 塾以外の時間も、運動や英会話などの各種「習い事」をさせられる。休日には親が用意した娯楽の予定が入れられる。子どもの成長に当たって、危険や失敗につながる障害物は事前に除去される。

 日本では、このように自由度の低い環境で育ってきた若者が大学に入っているのだ。そんな彼らに欧米風の「躾」を行ったらどうなるか。ロボットのように、指示されたことは完璧にこなすが、自ら考えて動くことは全くできない人間が完成してしまう。

 だからこそ、日本の高等教育では、欧米の「躾」と真逆な「自由」を与えることが重要なのである。私は、自らの「上久保ゼミ」での教育の実践を通じて、非常によく躾けられた日本の若者に「自由」を与えれば、劇的に成長することを経験している。主体的に考え、行動できるだけでなく、周囲との調和も取れる若者になるのだ。

 私はこの点について、サッカー日本代表と欧米の比較も同じだという印象を持っている。

 欧米では、自由奔放で超個性派の選手たちを「躾ける」のが監督の役割だ。一方、日本では子どもの頃からよく躾けられた選手たちに「自由」を与えることで、選手自らがチームを形作っていく。