ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「銀行口座の残高照会が好きな人」が幸せになれない超意外な理由Photo: Adobe Stock

人間を苦しめる「意外なもの」

 人間には、実在しないものを現実につなぎ合わせ、それをさらに豊かにする能力があります。さまざまな想像の結び目が蓄積されて言語が誕生し、芸術や多彩な人生を体験できるようになります。

 その代表的な例が「幸福」です。触れることも辿り着くこともできないこの仮想に、私たちは固執しすぎているのではないでしょうか。

 そして、この仮想の頂点はおそらく「数」と言えるでしょう。実際、「数」を含むすべての数学的概念は、人間が作り出した最高の仮想です。

「数」にこだわることの恐ろしさ

 だから人間は、幸福の基準をもうひとつの仮想である「数」にこだわっているのかもしれません。住宅の価格や平米数、年俸といった数値が幸福の基準となり、通帳の残高が幸福の尺度となるように。さまざまな「数」にこだわりすぎるあまり、家族間での会話が減り、連帯感が薄れても何ら危機意識を感じない家庭が多いように見受けられます。

 亡くなったお年寄りの遺品の中から、小さく折りたたまれたお札や通帳が発見されたという話を聞くことがあります。「何かおいしいものでも」と子どもたちがくれたお金を、結局は使いもせず大切に残したままこの世を去っていく……。

 大切なわが子が汗水垂らして稼いだお金など使えないと言いながら、ぜいたくのひとつもせず、通帳の残高が増えていくことだけに満足していたお年寄りの真心に胸が痛くなります。

「今この時」に注力する

 私たちはもしかしたら、実際のお金の価値よりも、仮想の数字に心をとらわれながら生きているのかもしれません。幻の場所や物を幸福と決めつけ、傷ついたりしていないでしょうか。

 それよりも、今ここで自分ができることをし、そこから小さな満足を求めることのほうがもっと現実的ではないでしょうか。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)