イトマン事件の「真相」と森下

 森下は池田に対する債権者の1人として雅叙園観光の手形回収に乗り出し、さらにイトマン事件とかかわっていった。

 住銀グループのイトマンは90年に入ると1兆2000億円の不良債権が発覚し、河村は住銀からイトマン社長の座を降りるよう迫られた。それを迫ったのは、かつての師であった磯田だった。

 しかし河村は、それを呑まずに抵抗し、親会社の銀行と対立していった。自分自身でイトマンの株を買い集め、会社のオーナーとなって社長に残る算段をしてきた。アイチの森下がそこに協力した。それが河村に対する森下からの“融資”なのである。伊藤は次のような話をした。

「あれは私が段取りしたんだけれど、巷間(こうかん)言われているような話とはだいぶ違うんです。森下は河村さんに対して裏金として10億円を渡したことになっています。けれど、河村さんの意識ではそんなつもりはなかった。
 森下がイトマンの金融子会社の株を買い占め、買収したんです。それで、河村さんから『買収されたものは仕方ない。ただ、子会社に対しては10億円以上を貸し付けてきたから、その分だけでもアイチに返済してもらいたい。伊藤君、君は森下さんをよく知っているから、話してもらえないか』と頼まれたんです。
 イトマンから子会社に流れていた金額は14億円くらいあったように記憶しています」

 つまり、10億円は個人的な裏金の融資ではなく、イトマングループの会社を整理するための費用だというのである。伊藤はさらに説明を加えた。

「だから10億円は裏金でも何でもなかった。しかし、検察はそうは受け取らずに河村さん個人の背任行為と受け取ったんだね。河村さんは住友銀行に対抗するため、その金を使ってイトマン株を買っていったんだ、と。それでは住銀が困る。だから、無理やり河村さんが着服したようにして事件に仕立て上げた。つまるところ森下も検察に協力したわけです。河村さんは可哀想なもんですが、それが真相だと思います」

 住銀の天皇とまで崇められた磯田一郎は、すでにグループ内で求心力を失っていた。頭取の巽外夫(たつみそとお)が陣頭指揮に立ち、常務企画部長の西川善文(後の頭取)が不良債権処理の実働部隊を率いた。西川の依頼により、河村が計画していた南青山のイトマン本社移転先用地は、軍事商社の山田洋行がその転売に奔走した。

 一方、磯田は会長の座を追われ、河村たちをイトマンから退場させるべく、説得にあたった。河村によるイトマン株の買い増しは、その対抗策でもあったのである。

 河村のイトマン株買い占めについては、許の旧知である亀井静香も河村に協力していた。旧大蔵省銀行局の土田正顕に電話をかけ、側面支援したとも伝えられる。

 また事件の渦中、許は政界きっての実力者だった竹下登にも近づいた。竹下の支援者であり、「登会」なる後援組織を主宰してきた福本邦雄を、自らが経営に乗り込んだ関西の「KBS京都」社長に迎え入れたのである。KBS京都は当時、許の支配下にあった。画廊「フジ・インターナショナル・アート」を経営する福本は、絵画取引を使った政財界工作を得意とし、大物フィクサーとして存在を知られてきた。許たちはその福本や竹下を通じ、事件に蓋をしようと試みたとされる。

 だが、それらの裏工作は功を奏さなかった。大阪地方検察庁特別捜査部は91年7月23日、特別背任の疑いなどで許、伊藤、河村たち六人の関係者を逮捕し、起訴した。

 事件の主役の3人は最高裁まで罪を争ったが、2005年10月7日、上告を棄却される。許に懲役7年6カ月と罰金5億円、伊藤には懲役10年、河村に対しても懲役7年の実刑がそれぞれ確定した。

 イトマン事件は戦後最大の経済犯罪といわれ、1兆2000億円の不良債権のうち、3000億円が闇に消えたとされる。そんな途方もない資金がどこに行ったのか。誰も知らない。そしてこの先も明らかになることはないだろう。

 イトマン事件により、バブルという狂乱景気が幕を閉じた。森下の痛手は甚大だった。