幻のフェラーリ「ピニン」、40年前にお蔵入りした4ドアセダンのコンセプトカーとは1952年の夕食会の一シーン。エンツォ・フェラーリを中央にピニンファリーナ親子が両側に座った

 しかし結果的にこのピニン・プロジェクトはお蔵入りしてしまった。巷ではエンツォが最後で商品化に反対したというような説も流れているが、筆者としては必ずしもそうではないと考えている。要はフィアット・サイドからの同意が得られなかったようなのだ。フィアットの重鎮、ジャンニ・アニエッリが当時全幅の信頼を寄せていたフィアット・オートトップのヴィットリオ・ギデッラがその決断を下したとされている。つまりこのモデルのボディをいかに4ドアサルーン開発に経験のあるピニンファリーナが仕上げようともメルセデスのSクラスのような、ドイツ製高性能サルーンのクオリティと戦うことは出来ないという判断であった。これは正しい判断であったと言えよう。当時、イタリアでは労働争議が多発しており、完成車のクオリティは地に落ちていた。それだけではない。プロサングエの項で述べたようにサルーンとしての快適性に満足のいくモデルに仕上げるのはそう簡単なことではない、という判断もあったはずだ。

 果たして40年前にこの正しい判断があったおかげで、プロサングエはフェラーリの新しいカテゴリーの一つとして認知されることになったと考えたい。そう考えるとこの不運なピニンはフェラーリ4ドアの試金石として重要な役割を果たしたのではないだろうか。ちなみにこの1台だけ製作されたピニンはモデナの熱心なエキゾチックカー・ディーラーのオーナーが2008年に入手した。実はこのピニン、メカニカル系は全てダミーで、エンジンですらドンガラであった。元フェラーリの著名エンジニアの努力によってピニンはついにモデナの道を走ることがかなった。そのエンジニアとは先日訃報を聞くこととなったマウロ・フォルギエリその人であった。

文=越湖信一 写真=Autospeak Modena, Ferrari S.p.A., Pininfarina 編集=iconic

幻のフェラーリ「ピニン」、40年前にお蔵入りした4ドアセダンのコンセプトカーとは