「人種・民族に関する問題は根深い…」。コロナ禍で起こった人種差別反対デモを見てそう感じた人が多かっただろう。差別や戦争、政治、経済など、実は世界で起こっている問題の“根っこ”には民族問題があることが多い。芸術や文化にも“民族”を扱ったものは非常に多く、もはやビジネスパーソンの必須教養と言ってもいいだろう。本連載では、世界96ヵ国で学んだ元外交官・山中俊之氏による著書、『ビジネスエリートの必須教養「世界の民族」超入門』(ダイヤモンド社)の内容から、多様性・SDGs時代の世界の常識をお伝えしていく。

「世界の民族」超入門Photo: Adobe Stock

西と東、宗教と民族が渾然一体となったトルコ

 中東の非アラブ人であるトルコ人の起源は、世界史の授業で習った通り、中央アジアの遊牧民だった「テュルク系民族」

 しかし、世界の大国であったゆえにさまざまな民族が混ざりあい、今日のトルコ人となっています。現在では、国としてのトルコの国籍を有している人々がトルコ人。

 その他の中央アジアを含むテュルク民族をトルコ系と呼ぶことが多いようです。

 その歴史は、まずは11世紀初めに成立した「セルジューク朝」。イスラム教を受け入れていたため、東ローマ帝国と戦い、西へ西へと勢力を拡大し、地中海まで到達します。

 十字軍の攻撃によって12世紀にセルジューク朝が滅びた後、いくつかあったイスラム系の王朝のなかで、13世紀の終わりに頭角を現したのが西アジアにあった「オスマン朝」

 始まりは武闘派の遊牧民だったオスマン1世ですが、やはり西へと勢力を拡大していきます。

 キリスト教の国にとっては、セルジューク朝に攻め入られた悪夢がバージョンアップして蘇ったようなもの。

 15世紀にはコンスタンティノープルが陥落し、イスラム世界の宿敵だった東ローマ帝国が滅亡。

 オスマン帝国は、エーゲ海はもちろん黒海まで「うちの海」にしてしまいました。

 15世紀から16世紀の中東、北アフリカ、ヨーロッパと中央アジアにかけての広い地域は、ハプスブルク家とオスマン帝国が二大帝国として大きな影響を与えていました。

 ヨーロッパともロシアとも戦い続けたオスマン帝国が滅亡したのは20世紀になってからですから、いかに長きにわたって大帝国として繁栄したかがわかります。

 ヨーロッパ人、特にキリスト教徒にとってのオスマン帝国は、脅威であり苦い歴史。しかし、トルコ人とイスラム教徒にとっては栄光の歴史です。

 トルコ系の人々の民族的な特徴は、その多様性です。

 広大な領土を持ってさまざまな民族と交流・混血してきたことが理由ですが、イスラム教の受け入れがアラブ人に比べて新しく、そのため、元からの民族性を生かしながらアラブ世界やヨーロッパ世界の影響を受けて独自の文化を作りました。

 たとえば、トルコ語は中央アジアで主に使われているアルタイ諸語族ですが、アラビア半島で使われているアフロ・アジア語族のアラビア語の影響をかなり受けています。

 私はよくトルコのドラマを見ますが、楽しみの一つは、トルコ語のセリフのなかにアラビア語と同じ言葉を見つけること。

 たとえば「お母さん=ワーリダ」は、トルコ語もアラビア語も同じです。現在のトルコはアルファベットを用いますが、オスマン帝国時代はアラビア語と同じような文字を使っていました。

 さらにトルコは、他のイスラム教国よりも西欧的な文化を受け入れてきた歴史があり、近代においてはより積極的に取り入れています。数年前までは、EUへの加入が真剣に議論されていたほどです。

 イスラム回帰主義のエルドアン大統領が政権をとったことで、EU加入は実現しそうにありませんが、世界的に影響のある雑誌「エコノミスト」ではトルコはヨーロッパの項目で登場します。

 今なお「自分たちはヨーロッパの一員だ」と思っている人も少なくなく、特に日本人が会うトルコ人ビジネスパーソンは英語も流暢で、「自分たちは西欧と変わらない」という感覚の人が珍しくありません。

 もちろん敬虔なイスラム教徒もいますし、「女の子は外で遊んではいけない」など、日本人からすると「えっ」と驚く習慣や風習が残っている地方や家庭もあります。

国家を持たない最大の民族クルド人

 オスマン帝国が崩壊してトルコ人によるトルコに変わった時、属する国を失った民族が「クルド人」

 「国を持たない最大の民族」と称され、人口は推定で三千数百万から四〇〇〇万あまりというのは、アルゼンチンやポーランドとも大差ない一国ぐらいの人口です。

 クルド語は、言語としてはイランに近いインド・ヨーロッパ語族。クルド人のなかには、イスラム教徒が多く、ほとんどはスンニ派ですがわずかにキリスト教徒もいます。

 イラン、イラク、トルコ、シリアの国境を跨ぐ一帯にクルディスタンと呼ばれる居住区がありますが、必ずしも平和に暮らせてはいません。

 どこの国にあっても「目障りな少数民族」のように扱われ、抑圧の対象になっています。

 クルディスタン地域はもともとオスマン帝国の一部。

 あまりにも広大なオスマン帝国は、そのままさまざまな民族を受け入れてきたのでクルド人も問題なく暮らしていましたが、第一次世界大戦で敗北してオスマン帝国は崩壊します。

 国土は縮小され、小アジアとヨーロッパ大陸の一部だけ。トルコ語を話すトルコ人のための国家となり、「トルコ人以外は出ていってください」となってしまいました。

 さらに1916年のサイクス・ピコ協定によって、イギリス、フランス、ロシアの3国が「こっそりオスマン帝国を分けてしまおう」となった時、クルド人が住んでいたエリアに分割のラインが引かれるという不幸が重なります。

 こうしてクルド人は居場所を失いました。

 18世紀以降の国民国家の成立により、不幸な道を歩んだ民族にユダヤ人や内モンゴルの人などがいますが、クルド人も同様です。

 近代の国民国家の成立は、世界史の教科書で肯定的に書かれることもあるのですが、このような負の側面も大きいことに注意が必要です。

 また、イラン・イラク戦争の際は、どちらの国も敵を撹乱するためにクルド人を利用。年にはイラク軍によって5000人のクルド人が虐殺されました。

 2011年にシリアの内戦が始まると、クルド人も自治を求めて参戦。2019年にはシリアのクルド人自治区をトルコが攻撃。

 そして過激派組織のISとも無縁ではいられず……クルド人に平和が訪れるのは、悲しいことにまだ先の話になりそうです。

 現在、一番数が多いのはトルコに住むクルド人ですが、自治や独立を求めるクルド人側とトルコ側の差別や弾圧が軋轢を生み、非常にセンシティブな状態です。

 トルコ人の前でクルド人の話題を出すのは控えたほうが良いでしょう。

 オスマン帝国の末裔であるトルコ人は、本来は多様性を特徴とする民族にもかかわらず、近代の国民国家としてのトルコ成立後は、他民族を排除することになってしまいました。

 「民族のための国」というのは理想的に響きますが、マイノリティが居場所を失うという問題を常に孕んでいることを忘れてはいけません。