織田と武田では大きな実力差
それでも信玄が評価される理由

 武田は信玄の遺言に従い、その死を伏せたが、信長や家康は早くにこれを把握したようだ。それを知らない義昭は、2月にはじめて公然と信長との絶縁を宣言して挙兵し、宇治の槙島城に籠もったが、ここでも、春になったので動くと当てにされた朝倉義景が動かず、義昭は信長に追い詰められて7月には降伏し、室町幕府は事実上滅びた。そして、武田勝頼は信玄の遺言に従って、3年間、体制固めに時間を費やすることになった。

 もし、信玄があとしばらく生きたらどうなったのかは、分からない。もしかすると、木曽川の畔あたりで織田軍と武田軍が激突したのかもしれない。

 ただ、そこで信玄が勝てるとしたら、朝倉軍が全兵力を動員して京を占領する、あるいは、織田軍のかなりを引きつけておく必要があった。

 なにしろ、三方ヶ原の戦い前後の信玄の勢力は、甲斐23万石、信濃41万石、駿河15万石で79万石。そこに上野西部、遠江、三河、飛騨の一部などを合わせても100万石が限度、それに対して、信長は400万石くらいで、家康も50万石弱。

 この動員できる兵力の差は大きい。いくら武田軍団が強力でも三方ヶ原の戦いのときのような圧勝をすることはありそうもない。

 信玄の死を3年間隠したのち勝頼は、大軍を率いて三河長篠城を攻めたが、信長自身が出陣し、武田軍団の精鋭部隊がほとんど全滅するという空前の大敗を喫した。

 三方ヶ原では武田2万5000に織田・徳川1万1000だが、長篠では1万5000と3万5000である。どちらの戦いも数に勝る方が順当に大勝利を収めたというだけである。鉄砲の役割については、信長が先駆的に大量導入することが可能だったことはたしかだが、長篠の戦いで世界が変わったような戦術の変化があったというかつての説明は、今ではほとんどの人が事実でないと考えている。

 朝倉は雪のためだけでなく、それまでに信長に重臣の多くを調略されてそれほど大胆な軍事作戦を展開できなくなっていたと思われる。1573年の8月に信長が浅井氏の小谷城を攻撃した。朝倉義景が本格的な救援をしようとしたが、多くの武将が出兵を拒否。惨敗して越前に逃げ帰ったが、織田軍に侵入され8月20日に自刃することになる。

 そのあたりも考えたら、信玄にとっては、信長と有利な条件で和平し、兵を率いて上洛して、参内して官位などをもらい、長居せずに甲斐に引き揚げるくらいしか無理だったように見える。

 それでは、どうして信玄に対して過大とも思える評価がされるのかといえば、武田家が滅び、本能寺の変があったあと、徳川家康が甲信を領したことで、武田旧臣は三河や遠江出身者に比べれば劣後するし、大名になったものは少ないが、江戸時代には外様でなく譜代として扱われ、とくに旗本や各藩の上士など中堅クラスで重要な地位を占めたからである。

 たとえば、彦根藩では本国の遠江などの出身者より甲斐から出た者が多い。余談だが、ゆるキャラ「ひこにゃん」がかぶっている赤い兜も武田伝来のものだ。また、豊臣秀吉のもとに家康の家臣、石川数正が出奔したのち、兵制を甲州流に変えたので、軍師などとして甲斐出身者が重宝されたことも、信玄を描いた軍記物がよく読まれる理由となった。

 五代将軍綱吉の側近だった柳沢吉保は武田旧臣の出身で、甲府城主に抜擢されたのを生かして信玄旧蹟の整備を行った。こうしたことが、信玄の過大評価の背景にあるのだ。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)