1999年、若きイーロン・マスクと天才ピーター・ティールが、とある建物で偶然隣り同士に入居し、1つの「奇跡的な会社」をつくったことを知っているだろうか? 最初はわずか数人から始まったその会社ペイパルで出会った者たちはやがて、スペースXやテスラのみならず、YouTube、リンクトインを創業するなど、シリコンバレーを席巻していく。なぜそんなことが可能になったのか。
その驚くべき物語が書かれた全米ベストセラー『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』(ジミー・ソニ著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)がついに日本上陸。東浩紀氏が「自由とビジネスが両立した稀有な輝きが、ここにある」と評するなど注目の本書より、内容の一部を特別に公開する。
マスクの会社X.comはマイクロソフト上にシステムを構築していたが、ティールの会社コンフィニティは、ペイパルのシステムをLinux上で動かしていた。合併後、CEOとなったイーロン・マスクは、ペイパルのコードベースを書き直すことを提案する。以下はそのときの顛末だ。
マイクロソフトで構築し直そう
(会社の急拡大とそれに伴うシステムの安定のため)マスクは対策を提案した。ペイパルのサイトのコードベースを書き直そう。つまり、ペイパルの元のコードベース(コンフィニティのエンジニアが書いたLinux上のコードベース)をX.comのそれまでのサイトと同様、マイクロソフトのプラットフォーム上に構築し直すというのだ。そうすれば安定性と効率性が向上すると、マスクは主張した。
彼はこの取り組みを「ペイパル2.0」と名づけ、社内では「V2」と呼ばれるようになった。(中略)
「あのクソV2がうまくいくわけがない」
コンフィニティのエンジニアにとっては、「Linux方式」こそが“正しい”方式だった。
「当時、僕は生活のすべてをLinuxに捧げていた」と、多くのコンフィニティ出身者の気持ちを代弁してブラウンフィールドは言う。「ウィンドウズなんて、3メートルの棒を使っても触りたくなかったね」
オープンソースのコードベースを持つ、ハッカーが生み出したLinuxを選ぶ理由は、アーキテクチャの好みというだけでなく、個人的信条の問題でもあり、数十億ドル規模の巨大企業がつくったクローズドソース・システムへの移行は、受け入れがたかったという。
「みんなかなり苛立っていた」とジョード・カリム(ペイパル出身で、のちのYouTube共同創業者)は言う。あるとき彼は駐車場で、かなり前倒しで早退しようとしているコンフィニティのエンジニアに出くわした。どこへ行くのかと訊くと、エンジニアは答えた。
「セーリングにでも出かけるよ。あのクソV2がうまくいくわけないからな、ちくしょう!」
エンジニアのウィリアム・ウーは99年末にX.comに入社し、コンピュータサイエンスの修士課程に在籍しながら、サンフランシスコからパロアルトに通っていた。X.comとコンフィニティの合併後は、ただでさえ多忙な日々に、「二つのバージョンのコードを書く」仕事が加わった。
「ペイパルのデビットカードのコードは、実は二つのバージョンを書いたんだ。一つは、イーロンが我を通したときのためにウィンドウズ版。でもいつかペイパルが主導権を握るかもしれないから、UNIX版も書いておく必要があった。だからコード書きにあんなに時間を費やしたんだ。二種類のコードを書いて、二種類のプラットフォームでテストした」。それは保身のためだったと、ウーは認める。「どっちに転んでも生き延びられるようにね。あれは人生でいちばんしんどい時期だった」
V2のせいで、エンジニアリングチームの士気はがた落ちになった。「まったくおかしな時期だったよ。リスクが高くて成功するかどうかもわからない非常事態だったのに、開発者の僕はサボって昼の3時から映画を見に行ったりしていた」とエンジニアのデイヴィッド・カンは打ち明ける。
「地獄のように働こう」というメール
V2の決定が全員に歓迎されていないことは、マスクもわかっていた。
だがマスクの見るところ、そうしなければ二つのウェブサイトが併存したまま、プロダクト開発が遅れ、システムがほぼ毎週ダウンし、事態がさらに悪化しかねなかった。
マスクはチームの努力をねぎらう(かつ加速させる)ために、8月に褒賞プログラムを発表した。
「V2.0とV2.1のローンチを早めるために、ボーナスプログラムを実施する。V2.0を9月15日午前零時までにローンチできたら一人5000ドルを支給、そこから一日遅れるごとに500ドルずつ減額する。たとえばローンチが9月20日なら、全員に2500ドルずつ支給する。条件は、マックス・レヴチンの定義する拡張性要件を満たすことと、V2ローンチによって重大な(つまりメディアに知られるような)問題が生じないことだ」
「地獄のように働こう」とマスクはメールを結んだ。
だが開発が完了しないまま、期限は過ぎていった。エンジニアではない社員も心配し始めた。
「あの作業が大問題になっているのは知っていた」とエンジニアではないトッド・ピアソンは言う。「再構築の完了は3週間遅れ、そして3ヵ月遅れた」
マスクはペイパル2.0の開発ペースを上げるために、それ以外のすべての開発とコード配置の中断を命じた。
だがペイパルのウェブサイトの利用者は非常に多かったため、この決定はチームの懸念を呼んだ。するとまた別の危険信号が灯った。マスクは、変更により問題が生じた場合のための原状回復(ロールバック)計画も立てずに、ペイパル2.0を世界に公開するつもりだと宣言したのだ。
リード・ホフマン(ペイパル出身者。のちのリンクトイン共同創業者)によれば、マスクは「時間が非常に限られていて資金もあまりないから、早くこれをやってしまわないと」とチームを急かした。「ロールバック計画を立てている暇がない。新しいシステムをつくって、すべてをそこに移行してしまおう」と。(中略)
人心が離れていく
コードには、ときに驚くほど個性が表れることがある。たとえばPayPal.comの元のコードベースはレヴチンの人格そのもので、「マックスコード」とまで呼ばれていた。マスクのV2への変更が、マックスコードの完全廃止に、ひいてはレヴチン自身の追放につながるのではないかと、一部のエンジニアは心配した。
実際、レヴチンは会社を辞めることを考えていた。
会社を始めたばかりの、まだ未来が見えなかった時期は、楽しかったし、手応えもあった。だがいまやその他大勢の一人になってしまい、自分の仕事は上司によって葬り去られようとしていた。すべてを捨てて新しいことを始めようかと思っている、とまわりに漏らした。もう辞めてしまおう、とレヴチンは思った。V2のせいで生きる気力を失いそうだ。
マスクやティールと同様、レヴチンも社内政治を毛嫌いしていた。だが二人と同様、彼も強烈な負けず嫌いだった。マスクがマイクロソフト環境への移行に関しても、社名に関しても、もちろん戦略に関しても譲るつもりがないのを、レヴチンは知っていた。そして同僚たちと話し合ううちに持ち前の闘争心が頭をもたげ、絶対に譲るものかと心を決めた。
2000年の初夏から初秋にかけて、X.comの経営陣には、レヴチンの理解者が増えていった。彼ら全員が、元CEOのビル・ハリスへのクーデターに参加していた。一度うまくいったことは、次もうまくいくかもしれない、と彼らは考えた。かくして、X.comの共同創業者にして最大株主でもあるマスクを会社から追放するための秘密の動きが始まった。
(本原稿は、ジミー・ソニ著『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』からの抜粋です)