サッカーと駅伝、同じように語れるか

(1)大事な前提条件を見誤っている

 例えば、駅伝の選手選考とサッカーの選手選考のあり方はずいぶん異なる。選手同士の相互作用の重要性について考える必要性がまったく異なるからだ。

 駅伝では、A選手とB選手の走法スタイルの相性について考える必要性がほとんどない(単にたすきを渡すだけである)が、サッカーであればプレースタイルの相性はとても重要な要素となる。

 駅伝の場合は、公開されている記事などから情報を集約すると、走る場所の特性や当日予測される気候条件、同じ場所を走るライバルとの駆け引きや、チームの戦略によってその区間にどのような走り方が求められるかなどについて深く考えて選手を選考する必要性が強調される。この思考法をサッカーの選手選考に当てはめて語ることは可能だ。

 しかし、同じ方法でポジションごとの選手を選ぶと、同じピッチ内で共存しにくいプレースタイルの選手同士、つまり相性の悪い選手同士を選択する可能性がある。このように本来押さえておかなければならない条件を無視した発言は「わかってないなあ」と無視されて終わりである。

(2)中身が陳腐である

 例えばある分野の権威が、別分野について語る際に、当人にとっては新しい領域であるがゆえに新鮮で新発見の連続となる可能性がある。

 そこでの発見の喜びとともに何かを語ると、言われた当の分野の人から、「すごいですね。さすがXXの権威でいらっしゃるだけに、私たちの分野でも、もうそんなことまで発見されたのですね」などと称賛されることになる(もちろん単なる社交辞令なのだが)。

 そこでやめておけば良いものの、当人はいい気になって、それなりに学習し、自分なりの新しく素晴らしい見解をまとめて「どや顔」で発表する。しかしながら、別分野にはやはり別分野なりの蓄積があって、誰かが付け焼き刃で即座に思い付くくらいのことはもう十分に語り尽くされている。

 既知のものを別の言葉で言い換えた陳腐なアウトプットを自信満々に語られても、聞いている方は鼻で笑ってしまうレベルだろう。別の分野で権威であろうと、そう簡単に新しく価値のある見解を出せるほど甘くはない。よって、このような権威者の発言は取り巻きが多少おだてるものの、当該専門内部では完全無視されることになる。