所属クラブのシャルケは
ブンデスリーガで降格圏に低迷
自身の22年を振り返れば、セリエAのサンプドリアに所属した前半は、1月に負ったけがの影響で本来のプレーを取り戻せないまま契約満了で退団した。板倉が抜けた後のディフェンスリーダーを託されたシャルケは、カタール大会までの15試合を終えて最下位にあえいでいた。
シャルケの副キャプテンとして若手も束ねる吉田は、リーグ戦の全試合で先発を果たしていた。しかし、失点は15試合で「32」を数え、低迷の原因である守備崩壊の責任も問われていた。所属クラブで結果を出せていないからこそ、JPFAの投票で自らの名前を記すわけにはいかなかった。
自分だけではない。他の選手も互選で吉田に投票しなかったからこそ、初代ベストイレブンで選外になった。吉田は「非常にフェアな結果だったと思っています」とむしろ歓迎している。
「もちろん僕自身も悔しさを感じているし、冨安選手や板倉選手と切磋琢磨(せっさたくま)していくという意味で、次のアワードでは(ベストイレブンに)食い込めるようにチャレンジしていきたい」
吉田は昨年6月に、海外クラブ所属選手では初めてJPFAの会長に就任した。つまりカタールワールドカップを戦っていた時点ではプロサッカー選手、日本代表のキャプテンと合わせた「三足のわらじ」を履いていた。多忙な身でも、メディアの前で話すときの主語は「日本は――」だった。
たとえば各方面へ働きかけて新設した、今回のアワードに込めた思いをこう語っている。きっかけはイングランド・サウサンプトン時代に何度も目の当たりにしてきた、イングランドのプロ選手協会が独自で年間最優秀選手などを選出し、受賞者が歓喜の喜びに浸ってきた姿だった。
「選手が選手の投票によって表彰される。ものすごく価値があるものだと思ってきた一方で、なぜ日本には同じような表彰がないのか、ずっと疑問に思ってきました。これから日本代表が強くなっていくためにも、さらに多くの選手たちが海外に出ていかなきゃいけない。その意味でも、Jリーグに所属していない選手たちが、しっかりと評価されるステータスや環境を作るべきだと考えました」
話をシャルケに戻せば、JPFA会長として吉田が臨んだオンライン取材後も、再開されたリーグ戦でアイントラハト・フランクフルトに0-3、ライプツィヒには1-6と惨敗を喫し続けた。いよいよ追い詰められたチームには、冬の移籍期間が閉じる直前の1月下旬に救世主が舞い降りている。