磯田一郎 住友銀行会長 1987年5月16日号
 今回は1987年5月16日号に掲載された住友銀行(現三井住友銀行)の磯田一郎会長(1913年1月12日~93年12月3日)のインタビューである。聞き手は文化精神医学者の野田正彰氏。「ザ・経営者」と題されたシリーズ企画で、当時の日本を代表する経営者たちに、生い立ちから若い頃の夢、経済人として社会や時代にどう関わってきたのか、そして自分の仕事をどのように捉えているかといったテーマに深く切り込む内容となっている。

 高度経済成長の日本を襲った石油ショック(73、79年)により、多くの日本企業が経営危機に直面した。71年に住友銀行の副頭取に就任した磯田は、経営破綻に陥っていた総合商社の安宅産業を、伊藤忠商事に救済合併させた。その功績を引っ提げ77年に頭取に就任。その後も、東洋工業(現マツダ)、大昭和製紙、アサヒビールなどの企業再建で手腕を発揮し、頭取就任から3年で、住友銀行を都市銀行で収益トップに躍進させた。

 83年からは会長に就任。磯田は住友銀行の「中興の祖」「天皇」と称され、84年には勲一等瑞宝章を受賞、86年からは経団連副会長も務め、名経営者の名をほしいままにしていた。インタビューが掲載された87年は、そんな時期である。当時の記事タイトルは「背すじの美しいバンカー」。記事内に挟まれる野田氏の独白(青文字)には、「磯田さんは、枠が崩れ掛けている会社などへ行って、枠づくりをきちっとすることに、自信を持っている。枠を整えていけば、流れはおのずと澄んでくるんだという信念を持つ。だから銀行や企業の枠の中では、フェアなルールが大事で、それが資本主義社会の健全さを維持し、健全な競争を生むと考える」とある。

 ところが、会長時代の90年に「イトマン事件」が明るみに出る。大阪の中堅商社イトマンが反社会的勢力に取り込まれ、メインバンクである住友銀行からも不正融資や怪しい取引などで巨額の資金が闇社会に流れた経済事件だ。不正には磯田や親族も絡んでいたともされているが、「イトマンのことは墓場まで持っていく」と沈黙を守り、磯田は90年に引責辞任した。そしてイトマン事件の発覚から3年後、バブル崩壊が決定的となった93年に磯田は鬼籍に入った。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

優しい母親が怖かった中学時代
ラグビーに出合い人生が変わった

 人間というのは、あそこでちょっと曲がっておったら、人生すっかり変わっておったというのはなんぼでもあるわけです。やっぱり私にもその一つがありました。

1987年5月16日号より1987年5月16日号より

 当時おやじが海軍の軍人でして、体が弱かったので早く退職し、今の三井造船の嘱託みたいなことをやっていたんです。

 実は私は、非常に強く母親の影響を受けました。今でも人間的に一番尊敬しているのは母親だと思っております。私は一遍も母親に叱られたことがなかったが、その優しい母親が本当に怖かった。その母親が文学少女だったんで、私は小学校の頃から、分からんなりに漱石や鴎外の全集を暗記するぐらい読んでました。子供の頃は母親の影響を受けた、文学少年だったわけです。

 その母親が私を司法官(裁判官)にしたかった。父方も母方も熊本の誇り高い士族の気風の中で生き、正義を最も重んじたせいかもしれません。「弁護士は駄目、司法官でないと」と言ってました。

 ところが、岡山の一中(旧制岡山県第一中学校:現岡山県立岡山朝日高等学校)に入って、1年の1学期が済んだときに父親が死んじゃったんです。もし生きておれば、そのまま六高(旧制第六高等学校:現岡山大学)から東京大学へ行って、裁判官になっておったと思います。父が死んだので、母の親戚がかなりいた神戸に移ることになって、そこで人生変わっちゃったんです。神戸には高等学校がありませんので、結局、三高(旧制第三高等学校:現京都大学総合人間学部、岡山大学医学部)へ行くことになったわけです。

 神戸二中(旧制兵庫県立第二神戸中学校:現兵庫県立兵庫高等学校)のときラグビーを見たんです。神戸の商館に来ている、英国人の選手と京都大学の試合を見てね(30人の選手が入り乱れて、スピードと頭脳と体力の限りを尽くしての攻防に)、感激したんです。男らしかったので、これをやるんだと決めちゃったんです。スポーツらしいことはやってなかったが、ラグビーに夢中になってしまった。

 母親に子供のときから「裁判官になってほしい」と言われてましたので、大学のときにいったんは決心して、司法官になろうと思ったんです。試験を受けるために大学2年の春にラグビーをやめて、山へこもったことがあるんです。その山へラグビーの先輩たちが呼びに来たりして、だいぶ迷ったんです。