世界最大の金融グループに
転職を決めた陳さんの最後の言葉

 翌年3月初旬のある日、年度末の人事評価資料を準備している最中に、陳さんが私の席にやってきた。

「カチョサン?イマイイ?ワタシネ、会社ヤメルヨ」

 あまりに突然の言葉に驚いた。話を聞くと今日が出勤最終日で、明日から有休消化、今月いっぱいで退職するという。4月から香港のHグループに転職が決まったそうだ。Hグループといえば、ロンドンに本社を置く世界最大の金融グループである。

「す、すごいじゃん、陳さん!Hグループ?寂しくなるなあ。頑張ってな」

「ワタシ、カチョサンカラ、イツモ、イッテラッシャイ、オカエリト言ってクレタコト、ウレシカッタヨ。アリガトウ。カチョサンモ元気デネ」

 陳さんの晴れ晴れとしたすてきな笑顔を見たのは、これが最初で最後だった。

 新卒2年目、多言語を駆使する外国人社員。そんな若手をHグループが中途採用するのは、彼女がそれだけ優れた人材だったからだろう。もちろん我が社の採用チームも、彼女のスペシャリティーを見て、将来の活躍を描いた絵があったのだろう。だが、配属ガチャ、上司ガチャでハズレとなった。ハイスペックな人材を生かしきれないまま、他社に人材が流出してしまったといってもよいだろう。

 彼女がこの会社を選び、やりたかったことは何だったのか。少なくとも通訳ではなかっただろう。日本のメガバンクで仕事をし、思い描いていた未来図があったろうが、この支店で「お飾り人事」の扱いを受けてしまった。

 彼女の最後の言葉を思い出す。

 私が彼女にかけたあいさつ「いってらっしゃい」「おかえりなさい」がうれしかったという彼女の気持ちは、うそ偽りない素直なものだったかもしれない。

書影『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記』(三五館シンシャ)『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記』(三五館シンシャ)
目黒冬弥 著

 異国で学び生活していた彼女にとって、コミュニケーションに飢えていたというのは本音だろう。技能実習生として来日し、劣悪な労働条件を強要されている人たちや、難民申請しても認定されず途方に暮れている人たちも、まずはコミュニケーションできる人の存在を求める。気持ちは同じだと思う。

 だからこそ、あいさつや声をかけることが大事なんだと気づかされた。そしてこれは、外国人に限ったことでもない。それにしても、陳さんは元気でやっているだろうか。今、こうして執筆していても、しみじみとした気持ちになってしまう。

 私は今日も部下に声をかける。あいさつをする。懸命に仕事をする。つらいことも多かったが、この銀行には感謝している。

(現役行員 目黒冬弥)