十男の頼宣と十一男の頼房の母は同じで、関東の名門の出である。未亡人ばかり側室にしていた家康だが、中年になって珍しく若い女性を側室にした。

 頼宣は、大坂夏の陣のときに先鋒を希望したが断られ、またの機会もあろうと慰められたとき、「私の14歳は二度とない」と悔しがって家康を大喜びさせるなど、聡明で勇猛で家康から非常にかわいがられたようで、自分の隠居所である駿府城の城主にしている。しかし、家康の死後は、秀忠や家光に疎んじられ、駿府を取り上げられて和歌山に移された。

 また、幕府の転覆を企てた由井正雪の乱のときは、彼らが頼宣の書状をもっていたことなどから「関与が疑われて」、10年間、帰国を禁じられて江戸にとどめられたりしている。

 頼房は、家康が戯れで、天守の最上階から飛び降りたら天下をやるといったら、「天下をくれるなら私が」と名乗り出たといわれるように、有能だがややエキセントリックだったようで、その性格は息子の水戸光圀に受け継がれた。もらった石高がやや少ないのは、頼房と同母なので、一種の分家とみられたのかもしれない。

 信吉は寧々のおいの木下勝俊の娘、義直は浅野幸長の娘、頼宣は加藤清正の娘を正室としたが、頼房は正室を迎えなかった。

家康の娘たちの中で
厚遇が際立つ督姫

 娘たちのなかでは、北条氏直、続いて池田輝政の正室となった督姫への厚遇が際立つ。母は西郡局といって、大河ドラマではレズビアンの女性として描かれたことが話題になった。北条氏直の死後、池田輝政と再婚した。すでに嫡男・利隆(子孫は岡山藩祖)がいたが、督姫の子の忠雄もそれ以上の石高が与えられ、鳥取藩となった。督姫が利隆を暗殺しようとしたという伝説があるが、これは信用できない。

 振姫は五男信吉と同母といわれている。蒲生秀行と死別した後、子どもを蒲生家に残して浅野長晟と再婚して38歳で子を産んだが、高齢出産のためか、すぐに亡くなった。蒲生家の家老とお家騒動を起こしたので家康が処断した。

 その後、蒲生家は伊予松山藩主を最後に断絶したが、広島藩の浅野家では振姫の子孫が隆々と栄えた。

 この二人に比べて信康の同母妹である亀姫やその子どもたちへの待遇はもうひとつで、信昌は美濃加納10万石で終わった(子孫は豊前中津藩主)。また、三男の忠明は家康の養子になって、大坂夏の陣の後の大坂城代となり、子孫は武蔵忍藩主となった。

 信康の二人の娘のうち、登久姫は松本城主10万石の小笠原秀政、妙高院は姫路15万石の本多忠政の正室となったが、督姫や振姫に比べて冷遇で、ここでも信康や築山殿を殺したことを悔いていないことがうかがえる。

 また、母の於大の再婚先・久松家の子どもたちでは、四男の定勝が最も重んじられたが、家康が死んだ時点では伏見城代5万石であった(子孫は伊予松山藩15万石)。これも、あまり処遇したくはなかったようだ。

 こうして見てくると、家康による好き嫌いもかなりありそうだが、性格の向き不向きを冷静に見て、冷徹な判断をしながら子どもたちを処遇していることが分かる。

 ただ、家康が、能力にかかわらず長子優先を定めたことなどから、あまり優秀な将軍や大名は出現しなかった。また別の機会に論じたいが、海外の君主などと比べても、徳川将軍や大名たちの能力や教育水準はかなり低かったのである。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)