忠実でドライな秀忠を
後継者として評価
この秀忠より、5歳上に小督局を母とする秀康がいたが、本能寺の変と小牧・長久手の戦いの後に秀吉の元へ養子として差し出したことで、庶兄として扱われることになった。
秀康の母は側室でなく、瀬名の侍女で、いわば「お手つき」にすぎない。家康は自分の子か確信を持てなかったのか認知しなかったが、兄の信康が強引に引き合わせ認知させた。しかし、疑いは残ったのだろうか、跡取りにはしなかった。
秀康もそれに応じて、関ヶ原の戦いの後でも、秀吉の養子としての立場を崩さず、福井藩主になっても豊臣大名の扱いだった。骨はあるものの、秀吉の人質として大坂城にあったころ、並んで馬を走らせた秀吉の家臣を「秀吉の子に対する無礼を働いた」として斬り殺すなど、エキセントリックな面もあり、これでは、多くの殺生を働いた信康の二の舞いとみられても仕方なかった。
それに対して、秀忠は、自身も弱視だったが障害がある人たちに優しかったという母に似て、自己主張をせず、家康の息子として忠実だった。家康としては物足りなくもあっただろうが、守成の時代の後継者としては評価していたようだ。
単に従順だというだけでなく、徳川家のためとあらば、ドライに長女の婿である豊臣秀頼を滅ぼしたし、家臣に対しても流されず処断するところも気にいられたのだろう。ただ、次男の忠長には、夫人の江とともに甘く、御三家を上回る処遇をしようとして兄弟仲を悪くし、秀忠の死後に、忠長が切腹させられる悲劇を招いた。
関ヶ原の戦いでは、信州上田城にくぎ付けになり、合戦に遅れてしまったので、家康は後継者について重臣たちに諮ったところ、秀康や弟の忠吉を押す者もいたというが、これは、一種のガス抜きだったと思う。
四男の忠吉は秀忠の同母弟であるが、極めて勇猛だったといわれ、関ヶ原の戦いでもしゅうとである井伊直政とともに大活躍した。尾張清洲城主となったが、その時の傷もあって早死にした。
死に際して秀忠は大いに嘆いたが家康はそれほどでもなかったというのは、やはり危なっかしさを感じていたのかもしれない。夭折した子が一人だけいたが、男色についての逸話もあり、そのあたりも家康のお眼鏡にかなわなかったのかもしれない。
五男の信吉の母は、武田重臣秋山氏の娘の下山殿だった。信玄の娘の養子となり、武田家の名跡を継ぎ、水戸藩主となったが、21歳で亡くなったので特に逸話などもない。
六男の忠輝の母は、家康が晩年に信頼を寄せた茶阿局である。にもかかわらず、幼い頃、家康は容姿が信康に似ているといって嫌ったといわれる(信康に似ているというのがマイナス評価であることに着目すべき)。
伊達政宗の娘と結婚し、越後高田城主となったが、わがままで反抗的であり、勝手な振る舞いが多かった。家康は付家老を何度も変えるなどしたが、改まらず、家康の晩年には面会も許されず、信州諏訪に流罪とされ、92歳まで生きた。母の茶阿局への家康の信頼は厚かったが、家康も秀忠も、殺さないのがせめてもの情けというありさまだった。
七男・松平松千代(母:茶阿局)と八男の平岩仙千代(母:お亀)は、夭折した。
九男の義直の母である亀は、石清水八幡宮の社家田中氏(紀姓)の分家である京都正法寺・志水宗清の娘で、竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生んだ(尾張藩家老で美濃今尾藩主)。
文武を学ぶのには熱心だったというが、それほど派手な逸話はない。ただ、秀忠次男の忠長が1631年に失脚、1634年に切腹したのちは、1641年の4代将軍家綱誕生までナンバーツーだった。
1633年に家光が重病になったときは無断で江戸に上るなど、家光との確執はあったし、家綱幼少時の初詣についてこいといわれたときは、「無位無冠の子どものおつきなどできない」と断ったりしている。