しかしアーレントは、それでは個人にとっても、社会にとってもマイナスだと言うのです。個人にとっては多様な人と出逢い、思考する機会を失いますし、そういう人ばかりによって構成される社会は、非常に危ういものになってしまうということです。

 これはナチスによる全体主義を経験し、亡命を余儀なくされたアーレントだからこそ持ち得た視点なのでしょう。こうした活動の意義まで含めて、改めて「何のために働くのか?」という冒頭の問いに立ち返ると、それは個人と社会を健全な形で育んでいくためだということになるのかもしれません。

多様な価値観があふれる現代だからこそ
アリストテレスの正義が重みを持つ

 正義の味方と聞くと、どういう人を思い浮かべるでしょうか?

 たとえば、大勢でよってたかって弱い人をいじめているところにさっそうと現れて、その弱い人を助けるような人こそが正義の味方ということなのでしょう。

 しかし、もしその弱い人が急にキレだして、大勢をやっつけてしまい、さらに暴力を加え続けたとしたらどうでしょう?もはや、その弱い人を助ける意味はなくなりますよね。つまり、正義の味方は力のバランスを取っているとも言えるわけです。だからこの場合は、キレた人を止めに入るほうが正義になる。実は、これが正義の定義なのです。

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、そんなバランスとしての正義について本格的に論じた最初の人だったと言っていいでしょう。

 アリストテレスによると、正義には罪と罰の均等のような矯正的正義と、能力や功績によって財貨を受け取る配分的正義の2種類があると言います。

 このうちの矯正的正義が、先ほどの正義の味方に当たるわけですが、それはまさに強さと弱さのバランスを取る人なわけです。過剰に攻撃を加えるヒーローは、もはやヒーローとは言えませんよね。

 そうした正義に関する議論は、古代ギリシア時代以後の哲学史においては、わりと下火でした。もうアリストテレスが言ったこと以上に、言うことがなかったのかもしれません。

 ところが、現代の文脈において突如正義に関する議論が復活します。その立役者が、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズでした。ロールズは、その名も『正義論』というタイトルの著作を世に問い、正義に関する議論の火付け役となりました。『正義論』の中身は、社会における格差是正を俎上に載せるものでした。