建設されるはずだった新幹線
オイルショックと「国鉄の経営悪化」に阻まれる

 本州と四国を橋で結ぶ「本四架橋」構想は、昭和30年代から具体的な検討が始まった。現在の3ルートは、「神戸~鳴門ルート(明石海峡大橋や大鳴門橋)」、「児島~坂出ルート(瀬戸大橋)」、「尾道~今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)」。このうち神戸~鳴門と瀬戸大橋は、上部は高速道路・下部は新幹線の「道路・鉄道併用橋」として建設される方針が早々に決定していた。

 神戸~鳴門と瀬戸大橋の2ルートには新幹線計画があり、73年の時点で、北海道・東北・北陸・九州の「整備新幹線」に次ぐ「基本計画路線」扱いだった。しかし同年、橋の着工が指示された直後に、オイルショックが到来した。景気に急ブレーキがかかり、橋の建設そのものが各地で凍結されてしまった。

 大鳴門橋は3年後に着工にこぎ着けたものの、建設費用のうち約4割を負担する国鉄の財政が悪化。高木文雄総裁(当時)は「返済はおろか利子すら払えない」と、橋が途中まで完成した時点で意向を示した。これまで不採算な各地のインフラを次々と押し付けられていた国鉄にとって、約600億円ともいわれる費用負担は我慢の限界を越えており、「もう降りる!あとは勝手に道路単独橋で造ってくれ!」といった趣旨の宣言だったのだろう。

 しかし、大鳴門橋のお膝元である徳島県の失望は相当なものだった。県選出の三木武夫元首相は、首相在任中に自ら着工を指示した大鳴門橋の計画変更に猛反発。首相候補のライバルだった中曽根康弘氏(82~87年に首相)と連携してまで、鉄道部分の工事続行を要求したのだ。

 結局、両者痛み分けの打開策として、鉄道部分は重量の負担を減らすための「単線荷載」(線路を複線で敷いても、新幹線は1編成しか橋を通過できない)などへ設計を変更し、工事費用を大幅に圧縮。「将来は新幹線が通るかもしれないスペース」として完成した。しかし新幹線が通ることはなく、2000年に渦の道に改装され、今に至っている。

 なお、このスペースは06年に、約331億円の簿価を備忘価額(1円)に減損する会計処理が行われた。固定資産税への対策とみられている。また、年間約3000万円の維持費用は運輸省から国土交通省が引き継ぎ、今も税金で負担を続けている。