そして、子どもたちの服。私は「汗を吸着してくれるから」と毎日肌着を着せていましたが、義母は「こんな暑い夏に二重に服を着せるなんて」と肌着を省略。基本サンダルで過ごすため靴下もいらない、2歳の末っ子は家で過ごすだけならロンパースでいいでしょうと、とにかく服へのコストもばっさりカットされました。靴下を嫌がる末っ子を押さえつけて無理矢理履かせたり、真ん中の子に「下着の前と後ろが反対だよ!」と注意したり、上の子に「また靴下脱ぎっぱなし!」と怒っていたりした日々は何だったのだろうと思うくらいです。

 こういった日本における家事育児の負担の大きさについては、私も昔はもっと意識的でした。アメリカで暮らしていたころは「シャワーを1日欠かしたところで死にはしない」「洗濯物はすべて乾燥機」「3食きっちり作るのは料理人の技だ」という気持ちでローコスト生活を送っていたのですが、2年前にアメリカから日本に本帰国して以来、シャワーどころか入浴も毎日必要だという気持ちになり、洗濯も毎日欠かさず、時には1日2~3回洗濯機を回してベランダに干し、作るのに時間も器も大量に必要となる和食をたびたび調理するようになりました。

 それというのも、やはり日本に暮らす日本人としては肩までお湯に浸かって自律神経を整えたいし、かんかんに照るおひさまを見ていると洗濯物や布団を干したくて体がうずうずしてくるし、和食を口にするとほっとするし、使い捨て容器は極力使わず地球にやさしくしたいし、子どもには肌着を着せたいからです。その気持ちに蓋をしてまで“コストカット”をする必要もないんじゃないかと思います。

 だからこのたび私は、次に掲げる3つのことをやってみようと決めました。

 第一に、ひとつひとつの家事育児を何のために行っているのか検証してみること。毎日のお風呂は清潔を保つために行っているのか、それとも子どもが入りたいというから入らせているのか。単なる習慣でやっているのか、さらに言えば“ちゃんとした母親”でいたいという意地や見栄のためにしているのではないか──。自分の気持ちが明らかになれば、家事育児の必要と不必要の境がきちんと見極められる気がします。

 それを見極めたうえで、第二に必要なことの代わりにどこか違うところで手間を省くことができないか考えてみる。お風呂に浸かることがどうしても譲れないなら、夕食は火やまな板を使わない料理で簡単に済ませるとか。1日は24時間しかないのだから何もかも完璧に遂げるのは不可能です。

 第三に、程度や頻度を下げたり手順を変えたりして、家事育児に柔軟性を持たせること。毎日のお風呂を清潔感を保つために行っているなら、夜と朝の2回ずつ子どもにシャワーを浴びせれば、夜いっぺんにお風呂に入れるより楽で、清潔にするという目的も果たせる──という感じ。漫然と、でも毎日疲れた、大変だとストレスフルに流れていた日常に、義母と義妹のおかげで錨を下ろすことができたようです。

大井美紗子(おおい・みさこ)
ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi

※AERAオンライン限定記事

AERA dot.より転載