地下鉄の削減に
再考を求めた東京市
具体的に見ていこう。東京市が復興院に書簡を送付したのは、前述の通り、震災の2カ月後となる1923年11月のことである。震災直後に取りまとめられた復興計画の事業費は、国家予算が16億円程度だった時代に41億円という膨大なものであったが、すぐに財政事情を考慮して10億~13億円程度への圧縮が決まった。
ところが10月下旬ごろから始まった大蔵省との折衝で、予算は7億円強まで圧縮され、最終的には4億6800万円まで削減されてしまう。
予算削減のあおりを受けたのは、地下鉄とそのトンネルを収容する道路の整備だった。東京市の書簡は、復興計画から地下鉄が削減されることについての再考を求める意見書である。書簡では市の顧問だったアメリカの政治学者チャールズ・ビアードの「帝都の計画においては高速度交通路線(地下鉄のこと)を最初に決定するを忘るべからず」との提言を引用し、地下鉄整備を欠いた復興計画は不十分だと主張している。
注目すべきは、路線の構成だ(画像3)。これは1925年に免許出願したものとほぼ同じであり、1924年4月の計画内定の半年近く前、震災2カ月後には大まかな方針が固まっていたことが分かる。書簡には運行計画、需要予測も添えられており、震災前から一定の検討が重ねられていたことがうかがえる。
東京市は路線網に路線を「井」形に配置する「ペーターゼン式」を採用した。その意図について東京市は、一極集中構造の都市の交通系統に適していること、最短距離で都心に到達するため効率的な経営が可能なことなどを挙げている。市が想定していた「都心」は、丸の内から日本橋、京橋に至る半径約1.6キロという極めて狭い範囲だった。
この都心に3×3の9駅を配置し、各方面から直線的に結ぶというのが市の構想だ。書簡は「東京を以て一中心の都市となすべきか、あるいは二中心以上のものとみなすべきか」が問題としつつも、人為的に誘導し得るものではないこと、海外大都市の現状と傾向を見る限り、東京は一中心の構造であるとの見解を示している。
しかし、既に東京都心は拡大しつつあった。仮に東京市の構想通りに地下鉄を整備した場合、極めて狭い都心以外に移動しづらく、東京の都市機能は史実よりはるかに一極集中の構造となっただろう。