東京市の4割が焼失し
練り直しとなった都市計画

 ところが、震災で東京市域の4割が焼失すると、東京の都市計画は練り直しとなった。復興計画により下町の区画整理や昭和通り、大正通り(現在の靖国通り)が整備されるなど、現在の東京の基盤が作られていった。

 街の構造が変われば、都市の動脈たる地下鉄の在り方も変わってくる。1920年の路線計画は再考されることになり、1924年に東京地下鉄道(現在の銀座線浅草~新橋間)を除く各社の免許は失効した。民間主導の地下鉄整備に反対していた東京市は1924年4月に6路線からなる新たな地下鉄網を決定し、同年11月の東京市会の議決を経て免許出願した。

 鉄道省と内務省、復興院は出願を受けて改めて路線網を審議し、1920年の路線網を改定。同年3月に「内務省告示第56号」として示された。現在の路線網は、この計画をルーツに幾度の改正を経て形作られたものである。

 だが、1920年の路線網から震災を経て東京市の出願路線、そして1925年の路線網(画像2)へと形を変えていく過程はこれまでほとんど明らかになっていなかった。今回、発見された書簡は、この過程を解き明かす手掛かりとなる大きな発見であった。

(画像2)『東京市電気局30年史』などを参考に筆者が作成(画像2)『東京市電気局30年史』などを参考に筆者が作成 拡大画像表示