乗り換えを減らす路線網を
重視した帝都復興院
土木・鉄道技師で復興院土木局長の太田円三も、同様の指摘をしている。太田は帝都復興における地下鉄整備のあり方を解説した「東京の高速鉄道に就て」の中で、東京の都心をどのように解釈すべきか議論があるとした上で、「ペーターゼン式は都心が一ヶ所であって、その範囲が非常に狭い場合」には適当だが、東京都心は小範囲に収まるものではなく、ペーターゼン式の採用は上策ではないとする。
直線的な路線から構成されるペーターゼン式は一見、効率的だが、並行路線への移動に2回の乗り換えが必要になる。東京市の構想は都心の駅を絞り込むことでこれを回避していたが、都心の範囲が広がれば成り立たない。乗り換えには待ち時間を含めて5~10分を要する一方、路線を多少迂回(うかい)させても所要時間は数分しか変わらない。太田は、地下鉄においては乗り換えを減らす路線網とすることが最も重要と指摘した。
このように、乗り換えを容易にするために路線を交差させる設計を「ターナー式」という。ただしこれは半円状の都市に適した形式であり、南東に東京湾を置き、4分の3円形の東京にはそのまま適用しにくい。
そこで太田はターナー式の思想を取り入れて、路線を複雑に交差させる路線網を構想した(画像4)。東京市のペーターゼン式と比べて非常に複雑な構造となっており、1925年の路線網に近づいた印象がある。
だが、路線網の改定を主導したのは免許申請を審査する鉄道省であり、太田の構想とも違う形で1925年の路線網が決定した(画像2)。しかし鉄道省の方針はかなり早い満開、それどころか震災前に固まっていてようだ。監督局技術課長伊藤常夫が1923年2月に作成したメモ「東京市ノ高速鉄道網ニ就テ」に添付された路線網案(画像4)は1925年の路線網と極めて似通っている。
伊藤は東京市が免許出願した1925年1月にも、「再ビ東京市ノ高速鉄道網ニ就テ」と題したメモを作成し、東京市のペーターゼン式を批判するとともに、太田の構想も方向性は同じとしながらも欠点があると指摘する。
その上で伊藤は、震災前に立案した「理想案」は震災後においてもなお理想的であるとして、復興事業における街路整備に対応して若干経路を変えた新案を提示している。伊藤常夫は鉄道史において全く語られていない人物であり、公文書でもあくまで私的なメモとしてとじ込まれているため、鉄道省の正式な決定にどの程度、寄与したのかは明らかではない。
だが、東京市の出願を審査するという形をとりながら、わずか2カ月で路線網が根本的に変わったのは、東京市が早い段階で地下鉄構想を取りまとめて復興院に提示していたことと、鉄道省が震災前から理想案を温めていたという背景があってのことだった。
今回、発見された書簡は復興計画における地下鉄の位置付けを示すのみならず、地下鉄史の空白を埋める重要なものだったと言えるだろう。