編集部に戻って、芸能人名簿を調べてみました(当時はネットなどないので、名簿や辞典のようなものを調べるしか手がないのです)。試しに1980年の27歳の女優を見てみると、確かに絶頂期の女優がいました。

 松坂慶子さん。バニーガールの格好をして歌った『愛の水中花』の大ヒットを皮切りに、それまでの脇役的存在から脱して、『蒲田行進曲』では主役として大ブレイク。当時27歳ですから、まぎれもなく絶頂期です。

 これならいける。1985年から逆算して27歳になる有望な女優さんを探したら、見つかりました。池上季実子さん。まだそれほど有名ではありませんでしたが、梨園に近く色気のある女優さんです。「コレだッ」と決め打ちして、短い原稿を書きました。

 結果は5年後に的中しました。宮尾登美子原作の『陽暉楼』に主演、大ヒットした上に日本アカデミー賞優秀主演女優賞を獲得。一流女優の仲間入りを果たしました。まさに「27歳女優絶頂説」は当たっていたのです。

5年も前の新人の相談を
覚えてくれていた人間味

 もっともこれは、5年後にわかったこと。小さなスクープだったことは私しか知りませんが、梨元さんは5年も前の新人の相談を覚えてくれていました。池上さんが賞を獲ったとき、電話をくれたのです。「梨元です。恐縮です。よかったね、木俣さん。預言があたったじゃない」……。以降、私は梨元さんのファンの一人となりました。

 梨元さんは法政大学社会学部を卒業して、その後講談社の『ヤングレディ』の取材記者になりました。そして、芸能レポーターとして独立したのは、なんと当時取材結果を報告していた書き手、あの『田中角栄研究』の立花隆氏から、「キミのしゃべりは面白いからテレビを主戦場にしたほうがいい」とアドバイスされたことがきっかけだったと、あとで彼に教えてもらいました。

「もともとはベトナム戦争批判や資本主義批判をしていた芝田進午先生のゼミだったから、もっと硬派なジャーナリズムもやりたいと思っていたんだけどね。立花さんと仕事をしたら、全然そっちでは敵わないとわかったから」

 明るく笑っていましたが、時折酒場で話をすると、きちんとした社会哲学を背景に持って、芸能リポーターとしての仕事をしていたことがわかりました。反ジャニーズ、反大手プロダクションというのも、ジャーナリズムの基本は強いものに対するチェックであることを心得ていたからで、そのあたりが他の芸能記者たちとは全然違いました。