フランスの啓蒙思想家ルソーは、代表作『エミール』の中で次のように述べています。

食事と睡眠の時間をあまり正確にきめておくと、一定の時間ののちにそれが必要になる。やがては欲求がもはや必要から生じないで、習慣から生じることになる。というより、自然の欲求のほかに習慣による新しい欲求が生じてくる。そんなことにならないようにしなければいけない。

子供につけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ。(今野一雄訳、岩波文庫より)

1日を一生と捉えて毎日の死を迎える

 「心」(=「身体」)が「眠るまい」とするもう1つの理由として、今日1日の幕を引く気になれないということが考えられます。

 前連載の第21回でも触れましたが、メメント・モリ(memento mori「死を想え」「死を忘れるな」という意味)という古いラテン語の格言があります。これは、「死」というものを想うことによって、ともすれば浪費されがちな「生」の有限性とはかなさを知らしめる警句です。

 「よく死ぬ」ためには「よく生きなければ」なりません。ここで言う「よく生きる」とは、自分に生来与えられた固有の資質を存分に開花させ、自分らしい「生」を享受する生き方のことです。

 これを1日の単位で考えてみても、同様のことが言えるのです。

 1日を締めくくる眠りを、いわば「毎日の死」として捉えてみると、今日1日を「よく生きて」いなければ、「よく死ねない」。つまり、「死ぬに死ねない」がゆえに不眠になってしまうわけです。

1日をどう締めくくるか

 もちろん、1日は限りある短い時間ですから、欲張ってあれもこれもすることはできません。しかしながら、1日の中でたとえわずかでもその人らしい時間を持つことができたか否かは、その日の眠りを大きく左右します。

 よく「身体を動かして疲れれば眠くなるものだ」と言われたりしますが、これは「身体を動かす」ことがその人らしい過ごし方である場合に限って有効なものであって、そうでないタイプの人がいくら身体を動かしても、「身体は疲れているのに、頭だけが冴えてしまって眠れない」ということになってしまいます。

 静かに読書したり、音楽を聴いたり、日記をつけて自分との対話を行なったりすることがその人にとって大切な「自分らしい時間」であるならば、たとえ30分でもそんな時間を持つことによって、自分の奥底で何かが充足し納得するので、眠気も自然に訪れやすくなるでしょう。
どのように過ごすことが「自分らしい時間」になるのか、それは各人各様ですから、自分自身で試行錯誤しながら見つけていく必要があります。

 おびただしい「すべきこと」に追い立てられ日々を過ごさざるを得ない私たちにとって、ここで述べたようなことを実行することは、なかなか容易ではないかも知れません。しかし、何が自然で何が不自然なことなのか、日々の生活に何が欠けているのかということに無自覚であるよりは、せめて問題の所在に気づいているだけでも大きな違いなのです。

 また、薬物療法を要するような不眠に苦しんでいる方であっても、社会化された「頭」が、内なる自然(「心」=「身体」)に向かって力ずくで睡眠剤という爆弾を投下し「あるべき睡眠」を強要するようなイメージではなく、時間に制約された状況に生きているがゆえに薬を使わざるを得ないことを、自分の「心」(=「身体」)に詫びつつ、「これで少しでもお休みください」とお願いするような気持ちで薬を使用することが大切だと思うのです。

 次回は、現代人の安定志向の中に潜む落とし穴について考えてみたいと思います。