秀吉を和平に転じさせた
九州情勢の緊迫

 天正大地震では、越中・飛騨・近江・伊勢・美濃・尾張辺りは壊滅状態になった。

 ただ、秀吉が和平に転じたのは、この地震のためだけでなく、西国の情勢の緊迫があった。毛利輝元と秀吉は、本能寺の変の後、友好的な関係ではあった。ただ、境界の画定や四国・九州などを征服した場合の取り分の思惑もあるし、さらに厄介なのが、備後鞆にあった足利義昭の処遇だった。なにしろ、義昭は形式的にはなお征夷大将軍であり、統一国家を確立するためには、殺さない限り和解が必要だった。

 九州は源頼朝が、前三国(豊前・筑前・肥前)は少弐氏、後三国(豊後・筑後・肥後)は大友氏、奥三国(日向・大隅・薩摩)は島津氏を守護にしていたが、守護の力がそれほど強くなかったし、北九州には周防の大内氏が進出して博多を押さえ、大内氏の滅亡後は毛利氏も進出してきた。

 そんななかで、大友宗麟(1530~87)が戦国大名として頭角を現し、ついで、龍造寺隆信(1529~84)が少弐氏に取って代わった。この宗麟と隆信、そして、ザビエルが日本上陸したときの殿様である島津貴久の嫡男義久(1533~1611)はほぼ同世代である。

 どうして、島津氏が大友氏に比べて出遅れたかというと、大友宗麟は嫡男で、しかも、21歳の時に父親に廃嫡されそうになったのを返り討ちにして家督を継いだので(1550年の「二階崩れの変」)スタートが早かった。

 このころの大友氏のライバルは、母の実家ともいわれる大内氏だったが、大内義隆が殺されて宗麟の弟・義長が大内氏を継いでからは、毛利氏が主たる敵になった。

 それに対し、島津貴久は島津氏の傍流で、一族内の争いを制して、宗家の養子になった立場で、奥三州の支配が確立したのは、その死後に子どもたち四兄弟が木崎原の戦い(1572)で伊東義祐を撃破してからだった。

 そして、耳川の戦い(1578)で島津軍が大友軍に勝ってから島津氏の優位が始まった。また、佐賀の竜造寺隆信が台頭し、島津・大友共通の脅威になったが、ただこのあと島原半島での沖田畷の戦い(1584年、小牧・長久手の戦いと同じ年)で島津軍と戦い敗死した。

 ここで島津の再攻勢が始まり、宗麟は秀吉に取り入って活路を見いだそうとした。時系列でいうと、次のようになる。

 1585年冬に秀吉が九州へ惣無事令を出したが、1586年1月に天正大地震が起こり、2月に秀吉は家康を赦免。6月に旭姫輿入れ。7月に秀吉が島津征伐を宣言。大友方の高橋紹運が筑前岩屋城合戦で戦死。11月に大政所が岡崎へ。島津軍は豊後に侵攻。12月に家康が大坂城に赴き秀吉に臣従。1587年1月に豊後戸次川の戦いで先鋒として秀吉に送り込まれた四国勢と大友氏の連合軍が、不用意な戦いをして島津軍に惨敗。4月に秀吉が自ら九州に出陣し、6月に島津氏が降伏という慌ただしい動きとなる。

 この流れを見れば、秀吉が家康殲滅へ万事万端を整えたところで、天正大地震が起こり、気勢をそがれたところへ九州の情勢が緊迫し、大甘の条件で家康と手を打ったことが分かる。