秀吉がキリスト教を禁止したのは
植民地化を恐れたからではない

 信長や秀吉は、グローバルな視野を持っていたので、九州に島津氏の独立王国ができて、海外と勝手に付き合いだしたら、日本は瓦解してしまいかねないことをよく理解していた。

 また、貿易上の利益や新しい文化や技術の吸収のためにも、南蛮文化の窓口である九州は、是が非でも秀吉にとって押さえておかねばならない要地であった。

 家康との和平がなって後顧の憂いがなくなった秀吉は、20万の兵で九州へ出陣し、島津義久を降伏させた。この後、秀吉は、キリスト教の禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、長崎の教会領回収、博多の大都市改造など、矢継ぎ早にそれまでの武家政権がきちんと取り組んでこなかった国際関係の調整に乗り出した。

 キリシタン禁教令は、イエズス会の初代準管区長ガスパール・コエリョという人の軽率な行いが災いした。ヨーロッパの習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法で布教に成功したアレッサンドロ・ヴァリニャーノなどと違って、コエリョはキリシタン大名を支援して日本全土を改宗させ、日本人を先兵として中国に攻め入るなどと夢想していた。

 そして、大砲を積み込んだ船を博多にいる秀吉に見せ、威嚇した。高山右近や小西行長は心配して、その船を秀吉に献上するように勧めたが応じなかった。この頃、さまざまな人がキリシタンの振る舞いについて、苦言を秀吉に持ち込んでいたところに、コエリョが威圧的な態度を秀吉に見せたために、秀吉が怒って禁教令を出したのである。

 秀吉がキリシタンを禁止したのは、放っておくとポルトガルやスペインの植民地にされかねなかったからだ、という人がいるが、それは非現実的だ。高山右近のようなキリシタン大名も秀吉に絶対服従だったから無理な話だった。

 それに、当時のポルトガルは、ゴアだとかマラッカといった要衝を占領して拠点にしていただけで、マカオでも居留が認められただけである。スペインでも植民地にできたのは、新大陸のように金属製の武器すらないところとか、フィリピンのように国家が成立していないところだけである。

 だから、もし秀吉をキリスト教に改宗させたら何が起きたかといえば、いろいろあり得るが、中国、朝鮮、日本のいずれでも帝王ないし天下人を改宗させずに征服などできるはずがない。西洋史に疎い日本人によくある間違いだが、世界のほとんどが欧米の植民地になったのは、19世紀のことであって、16世紀にそんなことは起こり得なかったことを理解してほしい。

 九州遠征の途上に、秀吉は足利義昭と会談した。義昭は秀吉に頼まれて、島津との仲介をしていたが、わざわざ秀吉が自分を訪ねて迎えに来てくれたとメンツも立ち、京に戻った。もっとも秀吉も、義昭の仮御所でなく、近在の寺院で会うことで上下関係がはっきりしないようにした。

 義昭は、翌年の2月に秀吉と一緒に参内して将軍位を返上し、出家し、准后という足利義満が引退後に就いた地位になって、秀吉が聚楽第で人と会うときには、法親王や摂関家とともに、上段で秀吉の左右を固めた。

 明治になって大名たちを華族にして、新体制の下でも居場所を与え、ぜいたくな社交生活を送らせたのは、秀吉の手法をまねたものだったのだ。

*本稿の内容は八幡衣代と共著の『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)および『「篤姫」と島津・徳川の五百年 日本でいちばん長く成功した二つの家の物語』(講談社文庫)で詳しく書いている。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)