しかし「バカ」などと人を罵倒(ばとう)する言葉はない、などと言われると困ってしまう。この世には善悪を超えてすべてのものが存在するのは自明の理なのに、である。

海外で通用しない日本人の美徳

 日本人は、自分と他人をまず道徳的な人間だと規定する。この場合の「道徳的」というのは、いいことをするということを指しているのではなく、悪いことをしないという意味の方が強い。社会主義国を除いて、これほど細かいところまで、常識的悪と思われるものを徹底して非難し、人間にあるまじきこととして心底から否定する国民はあまり多くないような気がする。

 或る時、もちろん日本でのことだが、寒い雨の日に、私はタクシーに乗ることになった。私はちょっとした荷物を持っていた。客を乗せる場所を目指して行くタクシーはひっきりなしに私の傍を通る。止めて乗ってしまいたい思いにしきりに駆られたが、タクシーも同業者の眼のきく範囲でルール違反をしたくないらしく、乗車を拒否されたこともあったので、私は律儀に歩いて列の最後を目指した。長い距離ではない。70、80メートルくらいのものであろう。しかし歩きながら、私は可笑(おか)しくなった。こういう律儀さは、多くの国で決して日本人のように美徳とは思われていないだろうと考えたからだった。

 日本人は生活のルールを自発的に決めることが非常に好きな人間である。

 タクシーの乗り場だけではない。お茶をいれるにも花をいけるにも、一種のルールを持ちたがる。それは芸術的な節度と、性格的な弱さとの両方を示していると思う。

神を畏(おそ)れる人の知恵

 1975年、第1次オイル・ショックを契機に、私は初めてアラブ諸国に旅行した。イラクは知らないが、リビアにもサウジアラビアにもクウェートにも入った。そしてそこに、日本人の論理とは全く違うものの考え方をする人々がいて、深く感動した。それは、私が彼らを相手に商売をしていないからだ、ということは言えた。もし厳しいビジネスをしていたら、考え方が違うことに感動したなどとたわけたことは言っていられない。違うのはひたすら困るだけなのである。

 しかし私は一応キリスト教徒だから、彼らの一神教徒的な発想を受け入れることには、それほど困難を覚えなかった。イスラムにとって神がいないという人は不気味なことだから、彼らは無神論者よりも、私のような他の宗教を信じている人をまだしも信用する、と教えられたし、私もまた彼らの生活ぶりを見て「あの人たちにもし信仰がなかったら、もっと近代化が早くできるでしょうに」というような日本人にありがちな反応に苦しめられずに済んだ。神がない生活など、彼らから見たら、自分の存在を失うことと同じであった。それはやはり唯一なる神を信じるユダヤ教でも同じで「神を畏れる人が、知恵を持つ人だ」と彼らも考えたのである。知恵がなければ、人間は獣と同じになる。だから、宗教さえなければ近代化が遂げられるなどとアラブ諸国で考えるというのは、彼らから見たら破壊的な思想なのである。