一周回って知らない話!?
阪神・阪急が統合した経緯
梅田阪神、梅田阪急の親会社であった鉄道2社は、大阪梅田~神戸三宮間で並走する沿線で開発区域を取り合ってきたため、対立状態が長らく続いた。もちろん百貨店もライバル同士であり、対抗意識を持った従業員も多かったという。この抗争状態を見てきた人々にとって、06年の阪神・阪急の経営統合、阪急阪神ホールディングス(持ち株会社)の発足は、まさに驚天動地の出来事だった。
きっかけは、通称「村上ファンド」の“阪神乗っ取り騒動”(鉄道や百貨店など阪神関連の株を買い占め、経営権を掌握しようとした)だ。この際に、村上ファンドが阪神タイガースに対する性急な改革案を出したことからファンの感情がもつれ、世論が一方的な「反対」に傾いたのは、村上ファンド側には大きな誤算だっただろう。
阪神との統合に意欲を見せていた京阪電気鉄道も手を出しづらくなり、その間に第三者として友好的に買収する「ホワイトナイト」として、阪急電鉄がTOB(株主公開買付)を決行。いわば「雨降って地固まる」状態で、ライバル企業であった阪神・阪急の関連企業が一斉に統合し、百貨店事業を含む小売事業はエイチ・ツー・オー・リテイリング(持ち株会社)傘下となった。ただ、阪神の百貨店事業をけん引してきた三枝輝行会長(当時)が「(阪急との統合は)今さらあり得ない」と言い残して会社を去るなど、一定の痛みを伴った。
とはいえその当時は、両店から至近距離のJR大阪駅構内で、新たな百貨店の誘致や、百貨店の「大丸梅田店」が入居していたビルの増床計画があり、梅田阪急・梅田阪神で争っている場合ではなかったのも事実だ。幸い、前述の通り客層をすみ分けてきたこともあり、2店とも存続した。
そして図らずもドミナント戦略(集中出店で限られたエリアのシェアを上げる)のような形となり、東京の老舗百貨店である三越・