松戸線の払い下げをめぐり
京成と西武がGHQに接待合戦

 そんな新京成が設立されたのは終戦直後、1946年11月のことだった。新京成線が走るのは戦前、津田沼の陸軍鉄道第二連隊と松戸の陸軍工兵学校が、津田沼から演習場のある八柱を経て、松戸まで結ぶ演習線として建設した「松戸線」の跡地である。カーブが多いのは演習線としての距離を確保する必要があったのと、戦場で迅速に鉄道を敷設する鉄道連隊という性格上、橋やトンネルを避け、地形に沿って線路を敷設したからだ。

鉄道連隊演習線と新京成線鉄道連隊演習線と新京成線(赤線)
「創立30周年 新京成電鉄」(ダイヤモンド社)に加筆 拡大画像表示

 戦争が終わり陸軍の解体が始まると、西武鉄道(当時の正式な社名は西武農業鉄道)は早速、戦時中に資材が撤去され放置状態だった松戸線の払い下げを求めて動いた。運輸省機関紙の記者だった山川三平によれば、西武は松戸線のレールなどの資材が目的で、もし必要があれば西武が路線を引き継いでもよいという条件だったという。

 しかし、地元つながりで鉄道連隊と親密な関係にあった上、お膝元に西武が進出することを警戒した京成は払い下げに反対して抗議した。運輸省としても戦中に私鉄の地域別統合を進めた手前、千葉県は京成がやるのが順当だとして、京成が設立した新京成電鉄に払い下げられることになった。

 この過程では、西武、京成の両社が、国内食料事情が危機的状況下にありながらもGHQ運輸局担当者に接待合戦をしたという逸話が残る。なお松戸線を取り上げられた西武だが、代わりに高田馬場駅を起点としていた「村山線」の新宿乗り入れが認められ、1952年の延伸を機に「新宿線」に改称している。

 京成が自ら松戸線を引き受けなかったのは、戦時中の施設、車両の酷使で荒廃した本線の復旧すらままならない中、資金の不足と終戦後も続いた厳しい資材統制に対応するには新会社を設立したほうが得策と判断したからだろう。将来的な合併を条件に免許されたが、先行きが見えない中で事業リスクを分散する意図もあったとみられる。

 もっとも新京阪の例に見るように、戦前は新会社を立てて新路線を建設することは珍しくなかったので、それが自然な時代だったということかもしれない。

 ただ前述のように新京成の設立は西武に対応する防衛策であり、積極的な沿線開発を企図したものではなかった。事実、開業した1947年12月の運行形態は、1両の電車が単線の線路を45分間隔で折り返し運転する小規模なもので、沿線の住宅化が本格化するのは高度成長に突入する1950年代後半以降のことだ。

 松戸線は設備こそ撤去されていたが、線路用地、路盤は保全されており、松戸で大きなカーブをショートカットする経路変更が行われた以外は、そのまま新京成線に転用された。レールや枕木は各地から中古品をかき集めたが、電力は京成の変電所から受電し、車両は京成の中古車を用いたため、建設費はそれほどかからなかったことも「新」を冠したスモールスタートを可能にした。