沿線開発の進展とともに
安定成長を続けた新京成
新京成線は1947年12月の新津田沼~薬園台間(2.5キロ)開業に始まり、1949年10月に初富まで順次延伸した。建設費調達が難航してしばらく工事が停滞したが、1953年11月に京成津田沼に乗り入れて京成線との接続を果たすと、法令の制約上、京成と異なる規格で建設されたレールを改軌して乗り入れに備えた。
残る初富~松戸間13.3キロは1955年4月に開業し、全線単線ながら京成津田沼~松戸間が全通。同時に京成千葉線との直通運転を開始した(ただし乗り入れはすぐに終了し、2006年まで再開しなかった)。またこの頃、松戸から柴又に延伸し、京成線に乗り入れる構想も存在した。
この頃から都心の住宅難解消を目的とした大規模団地の開発が本格化し、1960年に常盤平団地、前原団地、1961年に高根台団地の入居が始まった。新京成は続いて複線化工事に着手し、1961年から1975年にかけて全線の複線化を完了した。新京成の年間輸送人員は1964年の3100万人から毎年10%以上の伸びを示し、1969年には5330万人に達した。
輸送力増強に多額の設備投資をした結果、大きな債務を背負うことになったが、それ以上に乗客が伸びたことで1967年度末に欠損金を全額処理して黒字に転換し、1970年度には創業以来初の配当を実施した。
新京成は1953年8月に店頭株として一般公開され、1961年10月に東京証券取引市場第2部に上場した。当時の京成の持株比率は約65%だったが、1972年、1974年、1977年の3度の増資で京成本体の持株比率は段階的に下がっていった。
沿線開発の進展とともに安定成長を続ける新京成は、グループ内でも重要な役割を担った。千葉ニュータウンのまちびらきにあわせて1979年3月に開業した北総開発鉄道(現在の北総鉄道)は、北初富から新京成線松戸駅まで乗り入れ、第二期線(京成高砂~新鎌ヶ谷間)の開業までニュータウン住民の通勤を支えた。