人を介してとはいえ、このように「創立者から直接の激励」を受けてしまうと、池田氏を通して学会を見るようになり、冷静な視点で学会を見ることが難しくなりそうな気がした。以来、私は「創立者へのお手紙」を書くことを、しばらくやめることにした。

 最後に私が池田氏に「創立者へのお手紙」をしたためたのは、2014年のことである。当時池田氏は公の場に姿を現さなくなり、「病の床に臥せっている」という風聞が頻々と流れていた。その中で手紙を書けば、果たして返事はくるのか、来ないのか。来たとしたらどんな内容なのか――。そこに興味があったからだ。

 返事は来た。だがこのときは、学会本部の女性職員からの電話で、「真心をありがとう。くれぐれも皆様によろしくお伝えください」という定型文的な内容が伝えられただけだった。“お傍の人”による代筆とわかってはいるが、それでも長らく会っていなかった複雑な思いを抱えた祖父に、無理やり口を開かせたような苦い感覚に襲われた。以来、私は池田氏への「お手紙」は書いていない。

一つの時代が終わった
やはり、どこか寂しい……

 創価大学在学時、先輩学生からよく聞かされたものだ。「創立者が生きている大学は、日本にはあまりない」「創立者と共に時間を過ごせる時期に創大に入れたことは、福運である」「早稲田の大隈重信、慶應の福澤諭吉のように、池田先生はいずれ教科書に載る」と。

 戦後すぐの時代から平成の半ばまで、日本の歴史の転換点における舞台の裏に立ち会ってきたといわれる池田大作氏の死は、昭和や平成の時代を歴史の彼方へと追いやる、1つの時代の区切りといえよう。

 私自身も、創立者・池田先生の死によって、10代後半から20代半ばまで過ごした青春期が遠い過去になった気がする。同時に「学会」というものが私にとって遠い存在となった。

「創立者・池田先生。急な訃報を聞いて驚いています。私は、何とかマスコミの世界で頑張っています。どうか先生もお元気で。心からご冥福を祈念しております」

 これが、私にとっての最後の「創立者へのお手紙」である。東京・信濃町にある学会本部に郵送しても、もう返事が返ってくることはないと思うと、やはり、どこか寂しい。これから一気に歳をとりそうだ。

(フリージャーナリスト 秋山謙一郎)