AI時代、最重要の教養の一つと言われる「哲学」。そんな哲学の教養が、一気に身につく本が上陸した。18か国で刊行予定の世界的ベストセラー『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』(スコット・ハーショヴィッツ著、御立英史訳)だ。イェール大学オックスフォード大学で博士号を取得した哲学教授の著者が、小さな子どもたちと対話しながら「自分とは何か?」から「宇宙の終わり」まで、難題ばかりなのにするする読める言葉で一気に語るという前代未聞のアプローチで、東京大学准教授の斎藤幸平氏が「あらゆる人のための哲学入門」と評する。本稿では、同書より特別にその一節を公開したい。

子どもに怒るのは「全然意味がない」納得の理由Photo: Adobe Stock

人間には「理性」がある

 動物と人間はどこが違うのか? 違わない人間もいる。目先の欲望でしか行動できない人もいる。しかし、理性に基づいて行動できるのが人間だ。

 では理性とは何か? これまた複雑な問いで、ざっくりと答えるしかないが、「欲求」ではなく「すべきこと」に従って行動するのが理性の力だ。

 だれかが飢えていたら、面倒なことは避けたくても、食べ物を与えるのが理性だ。足を踏んだ相手が痛がったら、そのまま踏んでいたくても、足をどけるのが理性だ。約束したら、気が進まなくても実行するのが理性だ。(中略)

相手が人だから怒る意味がある

 もっと言えば、「なすべきこと」と「したいこと」を区別する能力は、人間が人間である理由の一部だと思う。

 わが家の愛犬ベイリーに、理性に訴えて何かをさせることはできない。犬を躾ける唯一の方法はインセンティブを与えることだ。

 だが、人間が相手なら理性に訴えることができる。

 反応的態度は相手の理性に働きかける方法の一つだ(注:「反応的態度」とは、相手をモノや動物ではなく「人間」として認識し、怒りや恨み、感謝などの対象として接する態度。本書参照)

 だれかに怒るというのは、あなたはもっといい行動を選ぶべきだったというメッセージを伝えることでもある。怒られたほうは快く思わないだろうが、怒っている側は、少なくとも相手をモノや動物としてではなく、行動に責任を持つことができる一人の人間として扱っている。(中略)

子どもはある意味「動物」である

 夫や妻でなく、子どもに対してはどうだろう? イルカのように扱うべきだろうか? 断然そうすべきだ。少なくとも幼いうちは四六時中、毎日。

 なぜなら、小さな子どもは人間ではないからだ。少なくとも罰の対象となるような人間ではないからだ。2歳児を相手に、理性に訴えて善悪を説くことはできない。

 親が何か話しかければ、子どもからも何か言葉が返ってくる。それで、親は子どもの理性に働きかけたような気になる。だが請け合ってもいいが、それは錯覚だ。なぜなら、幼い子どもは自分がしたいことと自分がすべきことの違いを理解できないからだ。(中略)

 幼い子どもは自分のすることに責任がない。

 そもそも、子どもには善悪の区別がつかない。区別できても、つねに行動を制御できるわけではない。彼らにそんな能力はない。別に彼らが悪いのではなく、子どもとはそういうものなのだ。

 要するに、小さな子どもに腹を立てても意味がないということだ。

 もちろん、そうは言っても親は腹を立てる。生まれたばかりのレックスが病院から家に帰ってきたときの私がそうだった。最初のうち、ほとんど寝てくれなかったからだ。

 ジュリーは出産の負担が大きかったので、数日間、授乳以外のことはすべて私がやった。泣き続けるレックスを何時間も抱っこしていると、わが子に対してさまざまな感情が渦巻いた。そのなかには怒りもあった。だが、その怒りは長続きしなかった。だってレックスは悪くない。悪かろうはずがない。レックスは怒りを向ける対象とすべき生き物ではない。自分のしていることに責任がないのだから。

 幼い子どもには客体(モノ)への態度を取らなければならない。その期間はたいていの親が思うより長く、少なくとも4歳か5歳までは、そのつもりで接するべきだ。本当の人間になりはじめるのは6歳か7歳くらいからだ。それ以前の子どもは動物だ。うんとかわいい動物だ。

 人間のように見えるし、声も人間に似ている。でも、絶対に人間ではない。小さな子どもは「管理し、操作し、矯正し、訓練するべき対象」なのだ。ただし、管理や訓練はくれぐれも正しい方法で行ってほしい。

(本稿は、スコット・ハーショヴィッツ著『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』からの抜粋です)