茶々にとって、東軍の大勝利は計算外だっただろうが、家康もとりあえずは、豊臣政権の大老としての立場で天下を差配する建前は維持したし、大坂城へも伺候していた。

 1603年に伏見城で征夷大将軍となるが、これを「幕府を開いて天下を差配することになった」というのは言い過ぎだ。幕府という言葉も当時はなかった。

 そもそも家康が将軍になったことは、意外なことではなかった。足利義昭が秀吉より1年前に亡くなり、足利宗家は跡取りがいなかった。

 源氏長者も、元は村上源氏の久我家だったが、義満の時に足利家に移り、空席になっていた。

 となると、源氏で官位が最高位は家康だから、氏長者となるのは自然だし、東日本を治めてもいる。また、坂上田村麻呂が征夷大将軍となった前例もある。

 このとき、秀頼が同時に関白となるといううわさもあり、公家の山科言継も日記に書いている。徳川家が将軍で、豊臣家が関白というのは、公家衆の感覚としておかしいことではなかった。秀頼関白は実現しなかったが、内大臣に昇任したので、「いずれは」と言われて茶々も納得した。

 かねて話があった千姫の輿入れも実現した。秀頼が11歳、千姫が7歳だから夫婦としての実態があろうはずもなく、婚約に近いが、将来の縁組みを前提として婚家に移るのはよくあることだ。

 江は従兄弟の佐治一成の元に幼少時に輿入れしているし、秀忠の次女・珠姫は3歳で前田利常と結婚し、金沢に事実上の人質として送られている。

 ドラマでは、茶々が家康に強引に迫って輿入れを実現したとしていたが、現実は逆だろう。ただ、母親の江が身重の体で江戸から千姫に付き添って上洛したのに、家康に大坂まで行くことは止められ、伏見で留め置かれたのは、姉妹で話をすることを家康が嫌ったからだろう。天下の仕切りを姉妹で談合されてはたまらない。

秀頼への上洛の打診に
茶々が怒った理由

 この年は、出雲阿国が、六条河原での念仏踊りで評判を取ったが、女性が大活躍する時代だった。

 江と前夫の小吉秀勝(関白秀次の弟)との娘である完子は、茶々の養女になっていたが、1604年に、九条幸家に豊臣家の姫として輿入れさせ、茶々は豪華な御殿まで建てて、京の人々を驚かせた。