二条城では対面して座ったものの、杯は家康が先に空けた。秀頼は、卑屈にはならずに年長の家康を無理なく立て、称賛された。会談は、清正が頃合いを見計らって「茶々が大坂で待っているから」と秀頼に退席を促して終わった。

 清正らは無事に会談が終わって大満足だったようだが、この会談は失敗だった。家康は秀頼について「女に囲まれて育ち、嬰児のごときと聞いていたが立派に育っている」「賢き人だ。人の下知など受けまい」といったという。

 どこから見ても優れた人物というのではなく、カリスマ性があって、へつらいながら立ち回るタイプではない、いかにも扱いにくい若者だとみたのである。

 もし、秀頼がバカ殿のように振る舞ったり、へつらって家康を持ち上げたりすれば良かったのだが、そうではなかったため、家康は不安になった。

 秀頼が普通の一大名のように振る舞うことまでは期待しなかったが、「徳川の客分」のような立場で満足してくれれば良い、ということだった。ちょうど、古河公方と北条家とか、京極家と浅井家などの関係のようなものだ。

 しかし、諸大名が秀頼に会ったら、「さすがは天下人だ」と思うだろうと恐怖が増した。

 しかも、このとき京の民衆は、秀頼の行列を一目見ようと都大路に出て歓迎し、清正は御簾を上げて立派に育った秀頼の姿を見せた。家康が「豊臣滅亡すべし」と決意したのは、このときだったのではないだろうか。

*本記事は寧々の視点から描いた『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)を再構成した。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)