このころ江戸では、江が家光を生んだ。これで、豊臣家にも徳川家にも、浅井や織田の血が流れることになり、大坂城で茶々の側近だった織田信包、長益、信雄らにとっても大きな喜びだった。織田・浅井・豊臣・徳川連合王朝の趣だった。

 8月に、京で秀吉の七回忌に豊国神社の臨時祭が開催されたが、都が始まって以来といわれるにぎわいとなり、京の民衆に秀吉がいまだ慕われていることを家康に見せつけることになった。

 大河ドラマでは、秀吉が「秀次切腹事件」などの晩年の「暴虐」や朝鮮の役などで嫌われていたと描かれているが、これは真っ赤なうそである。応仁の乱で荒れた京を復興し、朝廷の威信を回復し、平安建都以来の大改造を施して近世都市としてよみがえらせてくれた恩人に対する当然の評価だった。それに対して、徳川政権の政治の嫌われぶりは明らかだった。

 1605年には、第2代将軍に秀忠がなった。これについて大河ドラマでは、豊臣に天下を返すつもりがない意思表示だったと描かれていた。だが、徳川家が将軍であっても、豊臣の臣下であるとか、対等の立場だというのは可能なので、論理的ではない。

 茶々が怒ったのは、秀頼に対し、秀忠の将軍宣下を祝いに上洛しないかと打診があったからだ。「無理にと言うなら秀頼と心中する」といった物騒なことを口走ったとされる。茶々は思い詰めると極端な言葉を吐くことがあった。

 ただし、茶々が上洛に反対した理由は、秀頼が将軍秀忠に臣従することになるからではない。のちに二条城で家康と秀頼が会見したときも、家康のほうが官位が高いことに応じた儀礼上の配慮はあったが、臣従とはいえない。

 仮に秀忠が将軍になったときに秀頼が上洛しても、公家衆と将軍が会うときと同じで、官位が高い秀頼が秀忠の下になることはあり得ない。千姫の父なのだから、せいぜい対等の立場で接することになっただけだろう。

 茶々が心配したのは、秀頼の身に何か起きるとか、そのまま京都とか伏見に留め置かれることだった。その後の茶々の行動を見てもわかることだが、茶々は秀頼の身に何か起こるとか、自分と引き離されるというのを極端に恐れた。

 前田利長の母であるまつが江戸で人質にされ、のちに利長が越中高岡で重病になっても見舞いの帰国を許されなかったという無念を思えば、仕方ないことだろう。

 いずれにせよ、家康も刺激が強すぎたと思ったのか、秀頼を右大臣に昇任させ、六男の松平忠輝を大坂に派遣して、秀頼に拝謁させるなど、慰撫に努めた。翌年、江戸では江が次男の国松(のちの駿河大納言忠長)を出産した。